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表紙
親を失って
   少女は奈落に落ちた
      

第1章 ヴェネチア


 

「また陰気くさい顔をして。 海ばかり見て、何が楽しいんだ」
「地中海は初めてですから」
  ため息のような声で、ルネは答えた。 革の長着を着込みながら、ファン・ヨースは、ふんという表情を作った。
「昨日も先に帰ったな。 よく道に迷わないものだ」
「表通りを選んでいますし、ペーターがついていてくれますから」
  ペーターが護衛ではなく見張りだ、という事は、よくわかっていた。 ルネが逃げないように、ファン・ヨースは細心の注意を払っていた。
  また小馬鹿にしたように鼻をならすと、ファン・ヨースは銀貨のつまった皮袋を胴に巻きつけ、手をついて立ち上がった。 最近、美食が過ぎて太りぎみなのだ。
 主人が立ったのを見て、従者のハンスがあわてて鞄とステッキを持って、後に続いた。
  ファン・ヨースは戸口で足を止め、振り返った。
「買い物に行ってもいいが、無駄づかいするんじゃないぞ」
「はい」
「遠くへは行くな。 にぎやかな大通りだけにしろ」
「はい」
  それでも言い足りないように、ファン・ヨースは小さな眼でしばらくルネを見つづけていた。 ルネは無表情のまま、まだ産毛が残ったやわらかい頬を南国のそよ風になぶらせながら、窓辺に腰を下ろしていた。

 ファン・ヨースが商人仲間のクラブに出かけた後、ルネは午後の散歩に行った。 これだけが許された自由時間。 小さな足で石畳を踏みしめながら、ルネは通りの店々を素早い眼差しでながめ、もし好きになんでも買える身分なら、 あれと、あれと、あれがほしいな、などといろいろ空想していた。 だが、店に入って買おうとはしなかった。 憎しみしか感じない男の金で買ったものなど欲しくはない。
  町並みに、一際そびえ立つ聖堂があった。 数え切れないほどの柱が回廊を囲み、手前の緩やかな石段へと通じている。  その石段に、ひとりの青年が立っていた。
  黒いマントが左半身を覆い、すらりとした足を半ば隠している。 足元には金貨が散らばっていて、物乞いがうれしそうに拾い集めていた。 だが青年の眼は金貨にも物乞いにもなく、虚ろに空間を見つめているだけだった。
  眼が見えないのだろうか、とルネは思った。 気の毒に、世間知らずなのだろう。 金貨を無雑作にばらまいたりして、強盗を呼び集めているようなものだ。
  青年が途方にくれているのではないかと想像して、ルネはじっとしていられなくなった。 それで、急いで歩み寄ると、背後から青年の腕にそっと手をかけた。
  彼は、びくっとして振り向いたが、その視線はルネの顔にではなく、ドレスの裾のあたりに落ちた。 やはり盲人なのだとルネは思った。 それで、やさしく話しかけた。
「心配いりません。 おうちがわからなくなったか、迎えの方とはぐれたのでしょう? 住所を言っていただければ、ご案内しましょう」
  青年は、身動き1つせずに立ったままだった。 それでルネは、彼が旅行者でイタリア語がわからないのではないかと思いつき、フランス語とドイツ語で、それから英語で話しかけてみた。
  青年は、ふっと目が覚めたように顔を上げると、ルネを見た。 濃青色の瞳がいぶかしげにルネの碧玉のような眼を探った。 そのいきいきした動きは、盲人のものとはかけ離れていた。
  自分の早合点に気がついて、ルネは真っ赤になり、口ごもった。
「あ……出すぎたことを……目がお見えにならないのかと思って」
  間近に見ると、青年は非常に端麗な顔立ちをしていた。 それでルネは一層困ってしまった。 こんなことをして、まるで……客引きじゃないか!
  ルネは火がついたように青年の腕を離し、一目散に逃げ出した。

  その夜も、ファン・ヨースはルネを抱いた。 彼は灯りを消すのを許さない。 一糸まとわぬルネを見るのが好きで、いつまでもねっとり触っていたがった。
  遠慮なしの大声で言う言葉はいつも同じだった。
「若い色男にうつつを抜かして、わしに隠れて逢い引きしたりするんじゃないぞ。 奴らは腐れ魚だ。 特技は金を湯水のように使い果たすことで、女には甘い言葉をふりまくだけでなく、病気まで置いていくんだからな」


  翌朝、ファン・ヨースについて宿の食堂に下りていったルネは、隅のテーブルに昨日の青年の姿を認めて思わず立ちすくんだ。
  ファン・ヨースはルネの視線をたどって青年に行きあたると、とたんに目を光らせた。
「これはこれは、モンフォート殿だ」
  ルネは驚いてファン・ヨースを見た。 ファン・ヨースは得意げに、声をひそめて説明した。
「イングランドの伯爵だよ。 2番目の息子で、兄と比べると影の薄い子だったが…」
  そこで一段と低い声になって、
「半年ほど前にデズモンド・パークの当主になった。 噂によると、跡継ぎの兄を暗殺して奪い取ったそうだ」
  デズモンド・パーク・・・・イングランドで1、2を争うと言われる美しい領地の名前は、ルネの耳にも届いていた。
  ふと気がつくと、ファン・ヨースは持ち前の押しの強さで、ずかずかと隅のテーブルに突進していた。 ルネは困った。 とても後をついていく勇気はない。 そっと後ずさりして階段に戻ろうとしていると、もうどっかりと青年の横に座りこんだファン・ヨースが大声で呼んだ。
「おい、こっちだ。 さっさと来い!」
  ルネは覚悟を決めてテーブルに近づいた。 すると、思いがけないことが起こった。 青年がすっと席を立ち、ルネに頭を下げたのだ。
  ぱっとルネの顔が上気した。
(まるで上流のレディのように、ていねいに挨拶してくれた)
  信じられない出来事だった。 ファン・ヨースにとってもそうだったらしい。 ぎゅっと眉をひそめて不快な顔を作ると、ルネにぞんざいな口調で言いつけた。
「ぼんやり立っていないで、この方とわしにビールを注文してきなさい。 ビールでいいですな、モンフォート殿?」
  モンフォートは立ったまま、水のように澄んだ冷たい響きの声で答えた。
「わたしからお二人にご馳走させてください。 給仕!」
  慣れた手つきで給仕人を呼ぶと同時に、モンフォートは片手で椅子を引いて礼儀正しくルネを座らせてしまった。 これにはルネはもちろん、ファン・ヨースも愕然とした。
  さすがのファン・ヨースも少しの間どうしたらいいか考えあぐねているようだったが、やがて来た酒を飲むとやや落ち着いた。 そして、無表情にグラスを傾けているモンフォートにお世辞を並べ始めた。
  話が貴族社会のゴシップをさまよっているうちは、どうということはなかった。 モンフォートは言葉少なに相槌を打つだけで、ほとんど相手の話を聞き流していたが、ファン・ヨースはものともせずしゃべり続けた。
  やがて遠くから探りを入れながら、ファン・ヨースは核心に近づいてきた。
「ところで、デズモンド・パークはこの季節、さぞ花々が美しいでしょうな」
  雰囲気が一変した。 背筋に冷たいものを感じてルネが顔を上げると、モンフォートの視線が空中に釘付けになっていた。 それはルネが教会の前で目撃した、あの異様な視線だった。
  ファン・ヨースは得々と話しつづける。
「2度お邪魔したことがあるんですよ。 1度はスティーヴン様に会うことができました。 明るくて立派な方でしたな。 男でもほれぼれするような」
  ルネはもう黙っていられなくなった。 低脳な羊のように、ファン・ヨースは禁制の草地にどんどん入り込んでゆく。 相手が並の男なら、席を立って去るか、話題を変えるかするはずだ。 だがモンフォートはどちらもせずに、ファン・ヨースの露骨な当てこすりを、無言で聞いていた。
(この人は我慢しているんじゃない。 怒っているんだ。 唇が紫色に変わり出しているのに、なぜ気づかないんだろう)
  とっさにルネは、懸命に作った明るい声で口をはさんだ。
「イングランドには行ったことがないんですが、さぞ美しいところでしょうね。
  でも、ここも美しいと思います。 光があふれていて。 フリースラントにはこんな明るい光はありませんから」
  食堂に入って以来初めて、モンフォートはルネと目を合わせた。 紺に近い濃青色の眼から、異様な輝きがすっと消えた。
「おっしゃる通りです、マダム」
  ファン・ヨースが口をわずかに歪めて言った。
「この娘はただの小間使いです。 マダムだなどとは、いやはや…」
  ルネは耳まで赤くなるのを感じた。 モンフォートはまったく表情を変えず、まるで聞こえなかったような様子だった。 本当に聞いていなかったのかもしれないとルネは思った。 モンフォートの放心状態は誰の目にもつくほどはっきりしていた。 ただ一人、ファン・ヨースを除いては。
  ファン・ヨースは話の腰を折られたので機嫌を損ねていた。
「口ではこんなことを言いますが、少しも楽しそうな様子をせんのです。 普通の若い娘なら、ここのような陽気な場所に来れば歌だの踊りだのとはしゃぐでしょうに」
「はしゃいだ後はどんなものでしょう」
  珍しくモンフォートがまともに受け答えした。 3人はフランス語で話していた。 そしてモンフォートは見事なフランス語を操った。 ファン・ヨースよりよほど訛りのない上品なフランス語を。
「歌い踊って身をあやまり、泣いて暮らすのがおちではないでしょうか」
  ファン・ヨースは鼻白んで苦笑いを浮かべた。 そして、自分から話題を変えた。
「ヴェネチアにはいらしたばかりですか?」
  青年がうなずくと、ファン・ヨースは身を乗り出した。
「お一人では退屈でしょう。 いいお相手を紹介しますよ」
  そのとき、モンフォートの整った横顔に冷たい微笑が走った。
「もう紹介していただいたと思うが。 この人はわたしと話が合いそうだ」
  ルネは思わず青年の顔をまじまじと見つめた。
  ファン・ヨースは、さっと気色ばんだが、すぐに己を取り戻し、思わぬことを言った。
「お気に召したなら一晩お貸ししますよ。 差し上げるというわけにはいかんが」
  モンフォートは静かにグラスを置いた。
「どうも意味を取り違えておられるようだ。 私が望んだのは話し相手。 遊びの相手ではありません。 それではこれで」
  最後の言葉はルネに向けられたものだった。 すっと立ち上がると、モンフォートは給仕人に金を与え、無駄のない身のこなしで、なめらかにテーブルの間をぬって姿を消した。


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