表紙

第15章



 ようやく二人きりになると、 マイルズはルネの手を引いてカウチに座り、 膝に抱き上げた。
「ルネ、わたしの大切なルネ!」
(すべてが夢としか思えない。 でも悪夢はようやく終わったんだ)
  ルネはあまりの嬉しさに、叫び出したい気分だった。
「モンフォート様」
「そんな呼び方はよしてくれ。 わたしの名はマイルズだ。 マイルズと、君の優しい声で呼んでほしい。  それに、さっきの話を聞いただろう? わたしは僭主なんだ。  偽の跡継ぎで、モンフォートじゃない」
「いいえ」
  確信を持って、ルネは言い切った。
「あなたは神に選ばれた跡継ぎです。 私、見ました」
「見た? 何を?」
  信じないに決まっていると思ったが、ルネは話さずにはいられなかった。
「私はあなたを信じていました。 たとえ船を沈めたのがあなただとしても、事故かなにか、やむを得ない事情があったはずだと。  どうしてもあなたを守りたかった。 だから、罪深いことと知りながら計画を立てたんです。 お兄様の筆跡をまねて、 偽の遺書を書こうと。
  それで先代様の部屋に行って、手本にする書き物を 探していたら、肩に冷たい手がすっと載りました」
  今でも体が震えてきた。
「こわくて後ろを振り向けなかった。 でも斜め前の大鏡に映っていました。  青いビロードの上着に紺色のマントを着た美しい男の方が」
  マイルズはゆっくり呼吸していた。 ルネは彼の肩に額をつけて、 大急ぎで言い終わった。
「私はたまたま詩集のことを考えていたんです。 そうしたら、耳に聞こえてきました。  そうだ、小屋へ行けって。 だからすぐに行って、遺書を見つけました。  誓って本当です。 あれは…」
  マイルズは息を吸い込み、低い声でささやいた。
「それは兄だ」
  ルネの肩が緊張した。
「信じて……くれますか?」
  マイルズはうなずいた。
「信じる。 兄が君のそばについていると、わたしはずっと信じていた」
  どういうことなんだろう・・・・ルネは再び背筋がひやりとするのを感じた。 スティーヴ・モンフォートがなぜ私のそばに… 理解しがたいマイルズの言葉だったが、それでも彼が自分の話を疑わなかっただけでうれしかった。
  マイルズは、ルネを横抱きにして立ち上がった。  そして、ほどけて垂れた黒髪に頬ずりした。
「行こう。 今夜こそ、本当に二人の夜だ」
  ルネを軽々と抱いたまま、マイルズは階段を上っていった。
 

 翌日の朝、二人は手を取り合って木陰に座っていた。 幸せすぎて 言葉にならず、 ただお互いのあたたかみを感じてぼうっとしていた。
  眠たげな羽音を立てて、蜂が飛び過ぎていった。 その音で、はっと目覚めたようになった ルネは、ふところから紙を出してマイルズに渡した。
「本物は証拠としてしばらく戻ってこないでしょうから、写しておきました」
  ルネが細かいきれいな字で書き写したスティーヴの遺書を、 マイルズは口を固く結んだまま読んだ。

〔大切な弟、マイルズへ
 賢いおまえのことだ。 心の中では気づいているだろう。 わたしにはもう、 希望のない人生を生き抜いていくだけの力がないことを。
  自殺は許されないことだ。 よくわかっている。 だから家名に傷を つけないために、事故を装って死ぬつもりだ。
   しかし、私の船が万一見つけられて、おまえに疑いがかかったときのために、この手紙を 残しておく。 謎解きの好きなおまえなら、簡単に見つかるはずだ。 偽物ではない 証拠に、ロンドンのチェットナムにいるかわいいナン・オーエンスの 名前を書いておこう。 ナンはわたしの決意をよくわかっているから。 おまえはまったくの 女嫌いで、わたしにそんな恋があったことさえ知らないだろうがな。
  それでも、おまえがナンに会いに行く日が来ないことを心から願う。  わたしが遠い国で幸せに暮らしていると、おまえに信じていてほしい。 それがこの 愚かな兄の、ただ1つの願いだ。
    神がおまえと共にありますように。
    スティーヴン・フレデリック・モンフォート    〕
 
 読み終わった後も、マイルズはしばらく手紙を持ったまま動かなかった。
  やがてその肩がふるえ出した。 せきを切ったように流れ出す涙を、ルネは できるだけ見ないように顔をそむけていた。
 
  無言のときが過ぎた。 マイルズはゆっくりと紙をたたみ、赤くなった眼をルネに 向けた。
「ナン・オーエンスに会ったのか?」
  ルネはうなずいた。
「すぐ見つかりました。 はやっている酒場の主人の娘で、もう結婚してグレイソンという 苗字になってました。
  1年ちょっと前にスティーヴ殿が別れを言いにいらしたそうです。 形見にと、腕輪を 下さったと」
  マイルズの唇が震えた。
「じゃ、兄は…」
「ええ、そのときから死ぬつもりだったようです」
  かすかな溜め息が、マイルズの口からもれた。
 
  やがて気を取り直して、マイルズはルネの手を取り上げてキスし、 少年のような口調で言った。
「自分の幸運が信じられない。 無愛想で、女性との付き合い方など 何も知らないわたしに、どうして君のような人が心を捧げてくれたのか」
  彼の手に頬ずりして、ルネは微笑んだ。
「女を扱いなれている人なら、好きにならなかったでしょう。  純情で、まっすぐだったから、だから」
  ふっと、マイルズは苦笑をもらした。
「まっすぐ? 実はそんな男じゃない。 わたしは一目で君に夢中になった。  後をつけて、木に登って君を見ていた」
  たちまちルネは真っ赤になって、握られた手を引こうとした。  ファン・ヨースに抱かれているところを見られたと知って、身をよじるほど恥ずかしかった。
  ぐっと手を引きとめて、マイルズは続けた。
「君は清らかだ。 心も、体も。 純情なのは、あいつの言葉からよくわかった。 だからますます 君が欲しくなって、実行に移した。
  気がつかなかったか? 人の多いヴェネチアで馬車を借りるのは大変 なんだ。 あんなにすぐ借りてこられたのは、朝から準備して、君をさらおうと していたからだ」
  さらう! ルネの口が開いた。 そうだ、そうだったんだ!  だから監視役のペーターが、買収されて途中で消えた。 ずっと尾行する足音が聞こえた。  そして、道に迷ったとたんにマイルズが現れた…
  うつむいて、ルネは笑い出した。 笑いながら、思わず言った。
「さらってくれて、よかったのに!」
  マイルズも微笑した。
「いざとなると気後れしてできなかった。 初めての恋だからな、何もかもむずかしくて」
「初めて?」
  ルネは顔を上げて、マイルズの目を探った。
「それでは、森番の小屋にいた女の人は?」
  森番小屋と聞いた瞬間、マイルズの顔を形容しがたい複雑な表情がかすめた。
「あれは……」
  そうつぶやいたきり、しばらく考え込んでいたが、間もなく意を決して ルネの手を取って立たせた。
「疲れていなかったら、今からあそこへ行こう。 話したいことがある」
ルネは奇妙に胸を波立たせながらうなずいた。


  いつも通り、マットが二人についてきた。 無言で歩くマイルズは思いつめた表情で、 時々足が速くなりすぎ、ルネがついていけずに走り出すと初めて我に返って 歩みを遅くした。
 
  小道を進み、森陰から小屋が見えるところまできて、 マイルズはちょっと立ち止まった。
 その間にマットが足元をすり抜けて 小屋に向かったが、入口で突然身を伏せて警戒態勢を取った。
  マイルズは体を緊張させた。
「誰か中にいるんだな! きっと宿なしだ」
  二人は大急ぎで小屋に近づいた。 ルネを外に残してマイルズが中に 踏み込むと、寝台の上に悠々と寝そべって脚を組んでいるジミー・ラ ンドールが目に入った。
  マイルズの眼が火と燃えた。 しかし、彼が怒りを爆発させる前に、 ジミーが伸びをして先手を取った。
「いやあ。 昨夜は泊めてもらえそうもなかったんで、ここを思い出して ちょっと借用したんだ。 それにしても、以前はただのボロ小屋だったのを、 ずいぶん小ぎれいにしたもんだなあ。 君の逢い引き場所なのか?」
  マイルズの怒鳴り声は外にまで響き渡った。
「きさまだな! わたしがここに女を隠していたなどとルネに吹きこんだのは!」
  ルネは大慌てで自分も中に入った。
「ちがいます! ここに薪を取りに来た子供に聞いたんです」
  ジミーは妙な表情で二人を見比べた。
「おそろいで朝からどうしたんだ?」
  マイルズは、つかつかと寝台に近づくと、敷布団を掴んでジミーを 床に放り出した。 ジミーは怒って飛び起きた。
「何をする!」
「きさまこそ何の権利があってここに寝るんだ!
   いいか、これまでさんざんわたしを中傷してきたが、 今日こそ真実を教えてやろう。 皆に愛され、前途を祝福されていた、 まだ23歳の若者、わたしの兄が、なぜ絶望の底で死を選んだか!」


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