表紙

第16章



 ジミーをらんらんとした眼でにらみつけたマイルズの声は、 押さえきれない激情にふるえていた。
「この小屋には確かに4ヶ月の間、人が住んでいた。 わたしがこのベッドや 机や家具を運び、毎日慰めに通った。
 だが、その相手は女じゃない。 用心して、外に出るときは女のマントを かぶっていたが、れっきとした男だ。 わたしの兄、スティーヴ・モンフォートだ」

 さすがのルネも、この告白はまったく予想できなかった。 ジミーも同様らしく、 破れそうに眼を見張った。
「何だと?」
  マイルズの眼は真っ赤になっていた。
「そうだ、兄なんだ。 兄は天使のような人間で誰にでもやさしかった。 そのために あんなことになるとは、何という運命の皮肉だ!
  君や、君の不良仲間の誘いをはねつける強さが兄にあったら……
 だがスティーヴは君たちを遠ざけることができず、賭けでごまかされても、 たちの悪い女を押しつけられても、君たちの非を知りながら赦した。
   わたしは力の及ぶ限り兄を守った。 悪ふざけに巻き込まれたときは、 兄だけが逃げ遅れて罪を一人で背負いこむ羽目にならないように、 頭を絞って計画を立てた。 いかがわしい賭けに誘いこまれたときは、 目を皿のようにしてゲームのやり方を覚え、スティーヴがカモにならない ようにした。  
 わたしは兄のために剣術を習いさえした。 気前がよくて貧者に どんどん施しをするので、金に飢えたゴロツキに襲われる心配があったからだ」
  苦しくて、マイルズは全身で息をしていた。
「なぜそんなにスティーヴに尽くしたか、不思議か? それは兄だけが、 わたしを家族として本当に愛してくれたからだ。
  父はわたしを認知したが、世間体をはばかったからで、本当は 息子だなどと思ってはいなかった。 1日も早く追い出して、牧師にする つもりだったんだ。 わたしもそうなるべきだと5つのときから考えていた。  だがスティーヴが……」
  マイルズの眼が、かすかな輝きを帯びた。
「スティーヴとはずいぶん喧嘩した。 それで仲が悪いと思っていたんだろう?  そうじゃない。 わたし達は12才までまったく喧嘩したことがなかった。  この屋敷にいる権利があるのはスティーヴだけだと思ったから、わたしは決して 逆らわなかった。 
  12でわたしが家を出ることになった日、スティーヴは長い間父と話していた。  そして、その後わたしを誘って丘を歩き、入り江に行った。  そこで母の思い出を話してくれたんだ。
  スティーヴは母を愛していた。 歌がうまかったこと、絵が好きだったこと、 6つで死なれたから全部うろ覚えなんだが、一生懸命話してくれた。
   そして最後に、こう言った。
『父親の子だけが兄弟じゃない。 母親が同じなんだから、どうしてもっと 僕を信じてくれないんだ?』」
  涙が出そうになって、ルネは激しくまばたきした。 浜で肩を寄せ合っている 金髪と黒髪の少年が目に浮かんだ。
「その日にわたしは生まれ変わった。 父は兄の意見を入れて、 わたしをもう一年間置いておくことにした。 スティーヴが頼むと誰も逆らえない。  兄は回り中に愛されていたから。
  半年後に父が亡くなった。 兄は家を継ぎ、わたしに学問をさせ、 自分の行くところにはどこへでも連れて行って、引っ込み思案なわたしを 仲間に入れようと骨折ってくれた。 わたしを育ててくれたのは、4つで死んだ母でも、 12までほとんど言葉をかけてくれなかった父でもない。 スティーヴだ。
  だが、わたしは娼家だけはついていかなかった。 父が2ヶ月留守をしただけで 他の男と通じた母を思うと、女という女が汚く見えて、近づきたくなかった。 
  スティーヴも女を金で買う行為は嫌がっていたが、若い盛りだし、誰かにベッドに 押し込まれれば、自然と手が体に回ってしまったんだ。
  その結果は、何ヶ月も経ってから表れた。 わかるな。 わたしが何を言っているのか」
  ルネは戦慄した。 ファン・ヨースがあれほど恐れていた性病・・・・梅毒!
「無邪気な兄は、病気の見分け方も知らなかった。 斑点があらわれて初めて悟った。
 想像できるか、ジミー? あの優しいつややかな顔に紫斑が悪魔の爪跡のように 点々としている様子を……。
  わたしは耐えられなかった。 復讐しなければ、鉄板の上で焼かれているような 苦しさが消せなかった。 だから原因となった女を呼び出し、一刺しで殺して しまった。 どんな罰を受けるかなんて考えなかったよ。 そんな余裕はどこにもなかった。  結局、叔父が手を尽くして助けてくれたが……
  スティーヴは、あんなに明るかったスティーヴは、部屋に座って一言も口を きかなくなった。 わたしは様々な本を調べ、間もなく発疹は消えて、 その後しばらく症状は人目につかなくなることを知り、兄を励ましてここに移した。  ほんの少しの辛抱だ、長くても数ヶ月で目立たなくなるからと言って。  そうなったらわたしは兄を連れて、遠くへ行くつもりだった。 そして最後まで、 できるだけ幸せに過ごさせてやろうと決めていた。
 
 だが次第に兄は痩せてきた。 わたしが本を読むと熱心に聞いているふりを していたが、いくら元気に振舞っても、日に日に絶望がつのるのがわかった。
  そして、あの日が来た。 紫斑はすっかり消え、表向きには以前の美しさを 取り戻す日が。
 
 兄はその朝、楽しそうで、ヨーロッパの錬金術師が病を治してくれる という話を聞いたことがあると言い出した。 だから船に乗って探しに行くんだと。
 わたしも藁を掴む思いで賛成し、荷造りを手伝い、集められるだけの現金を渡した。
  だが、船が岸を離れたとたん、兄の顔から笑いが消えた。 亡霊が兄の肩から覗いていた。  スティーヴには死相が浮かんでいたんだ。
 
  お互いの眼が見えなくなるまで、わたし達はじっと見詰め合っていた。  わたしの心の奥では、これが永遠の別れだという声が響いていた。 だが、わたしは認めようとはしなかった。 いつか奇跡が起こってスティーヴは 帰ってくる。 健康で明るい元のままの姿で。 わたしはやみくもにそう信じようとした。
 

 一ヶ月経っても二ヶ月経っても、兄から約束の手紙は届かなかった。  その内、金が必要となり、代行といってもわたしの身分ではどうにもならない 事態となった。 そこへあの遺体が流れ着いたので、兄でないと知りながら 引き取り、一応跡をついで事態を収めてから、ヨーロッパへ兄を探しに出かけた。
 
 ジョワ・ドゥラヴィ号を求めて港から港へ……長い旅だった。  
 妙な噂が立っていることは知っていたが、兄さえ見つかればという 一心で気にもしなかった。 だが、どの船もどの港も、ジョワ・ドゥラヴィ号を 影さえ見ていないという。 ヴェネチアに着いた頃には、絶望で幻覚がちらつく ほどになっていた。 ジョワ・ドゥラヴィ号に積んだ水や食料では、 どう見積もってもヴェネチアまでが限界だったからだ。
 
 わたしにとって、スティーヴはすべての心の拠りどころだった。 父であり、母であり、 家族のすべてで、しかも親友だった。 その兄を独りぼっちで行かせてしまった おまえは何て馬鹿だったのかと、毎日自分を責めつづけ、せめて 兄がどこでどうなったのか、消息だけでも知りたいと、 寝てもさめても思いつづけた。
  良心の呵責と寂しさで、舵のない船となってしまったそんなわたしに、本当の奇跡が 起こった。 わたしはルネに会った……!
  兄がルネをつかわしてくれたと、わたしは信じている。 あの日のあの時間に、 わたしに話しかけ、腕を掴んで引き止めたのは、ルネを介した兄の手だったと、 わたしは固く信じている。 新しい天使、わたしの天使を、兄が無数の女性の中 から選び出してくれたんだと……」
  声が途切れた。 昼近くなって強まった風が小屋を巡り、木戸を叩いた。  その音に、ジミーはびくっとして肩越しに振り返った。
やがて前を向いた顔は色を失っていた。
「スティーヴが……知らなかった。 考え付きもしなかったが……」
  そうつぶやきながら、ジミーは臆病そうにちらっとベッドを眺めた。
  その視線に気づいて、マイルズは冷ややかに言った。
「心配するな。 同じベッドに寝ても伝染はしない」
「そうじゃない。 ただ僕は……」
  自分を落ち着かせようとして、ジミーは輝く金髪を額から撫であげた。
「スティーヴをそんな目に遭わせたのは誓って僕じゃない。 だが、気を配って やらなかったのは確かだ。 くそっ! あんなにいい奴だったのに」
  懸命に平静を装ってはいるが、眼に涙が光っているのを、ルネは確かに見た。  そのとたん、胸がずきりと痛んだ。
「ランドール様。 あなたの周りは友を装った鬼ばかりなんですね。  スティーヴ様は善良すぎて、鬼に食われてしまいました。 このままでは、 あなたもいつか…」
  ジミーはゆっくり首を上げ、ルネを見た。 それから淡い微笑を浮かべた。
「僕もいつかは? 僕はスティーヴと違ってすれっからしだからね。 でも今度の ことはこたえましたよ。 さすがの僕にも」
  彼はルネの横を通って出ようとして、ふと立ち止まった。 そして静かに言った。
「僕には天使はついていないようだ。 せめて君の天使の手なりと取らせて もらえるか?」
  ルネと目が合うと、マイルズはうなずいた。 ルネはぎこちなく手を差し出した。
   ジミーは3つ数えるほどの間、その手を握っていた。 それから、不意に 持ち上げて唇をつけると、さっと小屋を出て行った。
  ルネは、しびれたようになってジミーの後ろ姿を目で追った。 手から唇を 離した瞬間ルネの視線を求めたジミーの哀しげな眼を見なければよかったと思った。
  悪ぶっているジミーの恋心がやっとわかったからと言って、彼を救えるわけではない。  だがルネは、彼の悲哀が他人事とは思えなかった。 ジミーが本物の悪党なら、 マイルズが崩れそうになっていたときに、いくらでもデズモンド・パークを 乗っ取れたはずだった。
  ルネは思わず、ジミーの後を追いかけて、あなたにもきっと『天使』が現れると 言いたい気持ちに駆られた。
  気がつくと、マイルズが見つめていた。 不安そうな、おびえた眼差しで。
 ルネは無言で見つめ返した。 彼の額の雲が晴れ、濃青色の瞳が、 やさしい想いに安らぐまで。
 

〔完〕




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