表紙

第9章



 招かれざる訪問者が帰った後、ルネはスティーヴ・モンフォートの 肖像画をそっと見に行った。 
 流行に従って背後を暗くした中に、 金髪の青年の上半身が浮かび上がっていた。 ルネはしばらく見とれた。
  確かに美しい。 そしてさっきの遊び人貴族によく似ていた。  しかし、スティーヴにはそれ以上の何かがあった。 ジミー・ランドール にはない暖かさ、人なつっこいおおらかさが、柔らかい青の眼からルネに伝わってきた。
  何と魅力のある人だろう、とルネは思った。 だが、感想の後に1つ付け 加えるのを忘れなかった。
(口元はマイルズ・モンフォート様の方がいい)
  複雑で茶目ぽい瞳には魅力があるのに、スティーヴ・モンフォートの 口には力強さが欠けていた。 口だけが弱い、とルネは感じた。


  転々と燭台が石壁に並ぶ回廊を、ルネはゆっくり歩いていった。  昼間ぶつけられた残酷な言葉が、じわじわと胸に食い込んできた。
  マイルズ・モンフォートは口数が少なく、切り裂くような冷たさを見せる。  だがルネは、マイルズの本当の姿は清らかで親切な男性だと信じきっていた。  
 その心に、ジミー・ランドールはひびを入れてしまった。
(結局、彼は私で金儲けしたんだ)
  ルネは500ターレル付きの愛人にすぎなかったのだ。


  カチッとティーカップを置くと、マイルズは、ぼんやり足元に眼をすえているルネを見た。
「気分でも悪いのか?」
  問いかけられて現実に戻ったルネは、しかたなく答えた。
「いいえ、そんなことは」
「ではなぜ口数が減った? この3日間、ほとんど話をしていないぞ」
  マイルズは、すっと立ってルネに近づき、額に手を当てた。
 冷たい手だった。 彼はもう片方の手を自分の額に当て、体温を比べた。
「熱はないようだな」
「大丈夫です、本当に」
  その手が、ゆっくりと下がって顎に触れた。 ルネの顔を自分のほうに 向けさせて、マイルズは真剣な眼差しで尋ねた。
「本当だな? どこか痛いとか、苦しいとかいうことがあれば、必ず言ってくれ。  隠さないで」
  ルネの眼が落ち着きなく動いた。 優しくされるほうが辛かった。  もう何も期待したくないのに。
  マイルズはルネを引き寄せ、キスした。 それからしばらく抱きしめたままでいた。
  耳元で息がささやいた。
「あいつは君に何を言った?」
  ルネの体に、隠し切れない緊張が走った。 ますます強く腕を締めると、 マイルズは言葉を継いだ。
「もう来させない。 二度と君を傷つけさせないから」
  ルネはゆっくりマイルズの胴に両腕を回した。 どんな形にしろ、 彼はファン・ヨースから逃がしてくれたのだ。 感謝の心は今でも同じだった。


  やがて6月が来た。 イングランドでは最も過ごしやすい、さわやかな季節だ。
抜けるように青空の美しい日、マイルズが用事でロンドンに行くことになった。  2日間は帰らないというので、ルネはどこかほっとした気持ちになった。
以前は考えられないことだった。 いつも一緒にいたいと願っていたのだが……
  寂しい気持ちを振り切って、ルネは気分転換をすることにした。 この2日間、 マイルズに頼まれたことが1つある。 それはマットの散歩だった。  オリヴィアに言われたことが、未だに気にかかっているらしい。  犬を運動不足にしたくないのだ。 だから堂々と、ルネは一人と一匹で散歩に出かけた。
  マットは大喜びでルネについてきた、というより先に立って走り出した。  舌を出して疾走していく犬の後を追うのは大変で、ルネはあっという間に 見失ってしまった。

   間もなく、大きな吠え声が風に乗って聞こえてきた。 あわててルネが走っていくと、 マットは森の中で、男の子を追い回していた。
  ルネはとっさに少年に向かって叫んだ。
「止まって! 止まりなさい!」
  少年はぴたりと足を止めた。 するとマットはすぐ興味を失って、 とことことルネのそばに戻ってきた。
  犬の首輪を手で握って、ルネは少年に呼びかけた。
「怪我した?」
  少年は、頑丈でやや愚鈍なように見える顔を振りむけた。  そして口の中でむっつりと答えた。
「いいえ」
「そう」
  ほっとして、ルネは少年に優しく言った。
「犬に追われたら走ってはだめよ。 気の荒い犬なら噛み殺されてしまうわ。  踏みとどまって様子を見て、それでもかかってくるようなら棒で闘うのよ」
  ルネは少年に手を振って歩き出した。 少し行ったところで、少年の声が追ってきた。
「それ、殿様の犬だ」
「そうよ」
と、ルネは振り向かずに答えた。 
  少年は大股で歩いてきて、ルネの2,3歩後ろまで追いついた。
「殿様にしか、ついていかないはずだ」
「そうなの?」
  ルネは驚いて少年を見た。 少年はうなずき、横目でマットをうかがいながら 早口になった。
「殿様がロンドンに行っちゃったと聞いたから来たんだ。  でも帰ってきてるんなら逃げなくちゃ」
「殿様はロンドンにおいでよ。 犬は私が連れてきたの。  でも、なぜ逃げるの?」
「この森は、誰も入っちゃいけないって言われてるんだ。 
おれは前、たきぎを取りに来て見つかったんだけど、そりゃあおっかなかった。  殿様は黒いマント着て、火みたいな眼をしておれをにらんだよ。  殿様はこわい人だ。 前の殿様はよく笑って、明るくてきれいだったけどな」
  ルネは少しためらってから思い切って言った。
「前の殿様が、あそこの入り江から船を出して亡くなられたから、 こっちへ来るのが辛いのよ」
「ちがうよ! 前の殿様が死ぬ前からだ。 ほら、あそこに森番の小屋があるだろ?  あれに近づいたら鞭で叩くって言われたんだ。 なぜだか知ってるかい?」
  少年の鈍い顔がずるそうな笑いに歪んだ。
「女を住まわせてたんだ。 毎晩のように殿様は黒い馬に乗ってやって来て、2時間ぐらいで出てきた。 その女はめったに外に出なくて、たまに森の中を歩いてるときは、頭まですっぽりマントで隠してた。 人の奥さんと駆け落ちしてきたんだってみんな言ってたよ」
  不意にルネの午後は灰色のヴェールをかけられたようになった。  森は5分前と変わらず静かに木漏れ日を光らせているが、ルネには寒々とした光景に見えた。

   意を決して、ルネはマットをうながすと引き返し、小屋に近づいた。  マイルズがどんなに怒ろうとも、相手の女を確かめずにはいられないと思ったのだ。
  決然と森の小道を歩いていくルネの後ろ姿に、少年はかすれ声で呼びかけた。
「もういないよ! 行っちまったよ!」
  ルネの足が止まった。 少年は息せききって追ってきて、苦しそうに言った。
「いつ行っちまったか知らないけど、こないだ殿様が外国に行ったんで、おれが倒木拾いに来たときはもういなかった」
  ルネは思いに沈んだ。 
ヴェネチアの古い寺院の前に虚ろな眼差しで 立っていたマイルズ・モンフォート。 失恋の痛手に打ちひしがれていたのだと したら、暗い影も放心した動作も説明がつく。 
  しかも、万が一、恋人が実の兄と逃げ出したとしたら……
  やはり小屋を見たい、とルネは思った。 
その森番小屋は、表から見ると古びていて、使われていないようだったが、一歩中に踏み込むと、まるで上等の宿屋のように整備されていた。
  趣味のいい部屋だった。 上等な長持が置いてある。 そっと開くと、 青の長いマントが一着残されていた。
  白い寝台にはうっすらと埃がかかっていた。 小机の上に何冊かの詩集を 見つけたルネは、その中の特に読み古された赤表紙の本を取り上げた。 すると、 あるページが大きく斜めに折ってあって、開くと向かい側のページに奇妙な詩が 載っていた。

       我は逃れ去りぬ
       人の世の果てまで
       天空の彼方まで
       闇のきざはしが
       我をいざなえり

「我は逃れ去りぬ……」
  どこへ……いったいどこへ、この小屋に身を隠していた女は逃げ去ったのか?


表紙 目次前頁次頁

Copyright © Jiris.All Rights Reserved
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送