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第8章



 しばらくモンフォートは全くの無言だった。 なれているのでルネも 沈黙したまま景色を楽しんだ。 
 マットも久しぶりに主人と歩けるので幸せ なのだろう、急に走り出して突然止まり、倒れそうになるほど勢いよく回って 飛び帰ってきて、 モンフォートに荒っぽくじゃれかかったりした。
 
 森の奥に入ると茂みは密生して、歩く前に立ちはだかる感じになった。
  枝を折って進みながら、初めてモンフォートは低い声を出した。
「わずか半年でこんなに茂ってしまうのか」
  独り言のようだったが、ルネはすかさずその機会を捕らえた。
「父は木が好きでした。 遠くから見ただけで何の木か当てることができたほどです」
  モンフォートはふっと足を止めて、ルネを振り返った。
「わたしも好きだ。 木は人に似ている。 闘うし、利用し合いもする」
「それでは人間もお好きなんですね」
  ルネはうれしくなって訊いた。 
 モンフォートはうつむき加減になり、 一段と声を低くした。
「わたしは好きだが、他人はわたしを好いてはくれないようだ」
  とたんにルネは言うべき言葉を失った。 心の中で小さな声が叫んだ。
(私はあなたが好きです。 愛しています! 自分でもどうにもならないほど……)
  泣く代わりにできるだけ晴れやかな笑みを浮かべながら、ルネは答えた。
「そうでしょうか? クラークさんはあなたをしっかりした聡明な方だと言っていましたよ」
  モンフォートは顔を上げ、ルネが美しいとも恐ろしいとも思う冷たい横顔になった。
「クラークは忠義者だ。 それだけだ」
 
 
 二人はまたしばらく歩きつづけた。 やがて道は二手に分かれた。 
  モンフォートは迷わずに丘へ向かう道を取ったが、マットは体をくねらせ、 こちらも迷うことなく下り道を駆け下りていった。
  ルネが追おうとすると、モンフォートは険しい口調で叫んだ。
「構うな! 一人で帰ってくる!」
  ルネは立ちすくんだ。 
 初めてこうむったモンフォートの怒り・・・・ やはり今日何かでしくじって、彼を不機嫌にさせていたのだと、ルネは鋭く感じ取った。
 
 そう悟ると、ルネは小さくなってしまった。 もう話しかける勇気はなく、 並んで歩く自信さえなくなって、少し後からしょんぼりとついて行った。
 
 数分後、雨が降り出した。 
 水滴が肩を濡らし始めて間もなく、 モンフォートが足を止めてマントを脱ぎ、ルネに着せかけた。 そしてつぶやくように言った。
「大きな声を出したりしてすまなかった。 
 君に怒ったわけじゃないんだ。  ただあの……」
  そこで言葉は途切れた。 
 ルネは彼を見上げて懸命に言った。
「私が何か気にさわったことをしたのなら、構わず言ってください。  私にはまだわからないことばかりで……」
  モンフォートは寂しげに微笑した。
「今日の君に文句をつける男がいたらよほどの我がまま者だ。 
  本当によくやってくれたよ。 オリヴィア叔母はだいたい女性には 点が辛いんだが、君をすっかりお気に入りの様子だった。
  わたしはマットに怒っていたんだ。 いや、怒ることはできないかもしれない。  前はいつもあの道を通っていたから、犬が行きたがるのは当然だ。 
  だが今はあの道を使う気にはなれない。 2度とあの場所には……」
  再び言葉が断ち切られるように小雨のざわめきに消えた。
   もう少しで彼の心を苦しめている秘密に触れそうになったのだと いうことを、ルネは疑わなかった。 だがモンフォートの眼にあの 虚ろな影を見るのが怖くて、顔を上げることも相づちを打つこともできずに ためらっているうちに、二人は開けた森の外れに出てしまった。
 
 
 館に来てから2週間ほどが最も不安な時期だった。 
 毎日誰かしら訪問客があった。 領地の住民のご機嫌伺い。  近隣の郷士たちの表敬訪問。 教区の牧師も現れた。 
  みな何がしかの好奇心を隠し持っていて、大抵がルネを見ると 意外そうな表情を見せた。
   町で仮縫いした服は、まだ届かない。 しかたなくルネは地味な服のまま、 気づまりを表に出さずに応対し、それぞれの名前と家族、 出した料理と会話の内容などをできるだけ細かく記録した。 
 

 デズモンド・パークに来て10日ほど経った日の午後、ルネはもう 一人のモンフォート一族に会った。 会ったというより、遭遇したという ほうが正しいかもしれない。
 
  家具の位置変えについてウィギンスと相談して戻ってきてみると、 長い脚の男が居間の椅子を我が物顔に占領しているのとばったり出くわした。
  それは非常に美しい男だった。 ぱっと人目を引く美貌という点では、 モンフォートも敵わなかった。 
 おそらくこの男と並べば、伯爵は 太陽に隠れた月のように見えるだろう。 あくまでも表面だけのことだが。
  ルネは、華やかな美青年にひそむ退廃の影をすばやく見てとった。  酒、女、それに賭け事だ。 
 このまれに見る美しさも後10年とは続くまい。  やがて頬はたるみ、すずやかな水色の眼は赤らんで濁り、 すんなりした脚は痩せこけて、でっぱった腹を支えきれなくなるだろう。  こうした社交界の浮かれ者を、ファン・ヨースは腐れ魚と呼んでいた。
 
 ルネは、青年と同じ部屋の空気を吸うのさえ嫌だったが、 相手がいつまでも無遠慮に見つめているので、とうとう自分から口を切った。
  「どなた様ですか?」
  青年は奇妙な風に口をつぼませた。 それから、いきなりどっと笑い出した。
「どなた様ですかって? やれやれ。 僕は君が生まれる前から ここに出入りしているんだぜ。 かわいいおめかけさん」
  ルネの心はかっと燃えた。 最低の女たらしがよくも!
「めかけなんて呼ばないでください! 私は家事を任されているんです」
「なかなか言うじゃないか。 赤んぼみたいな顔をして」
  男は高い声でくすくす笑った。
「家事ができるのか。 賭け事の景品にそんな特技があるとは驚いたな。  500ターレルにしてはえらくお買い得だったわけだ」
  ルネの頭の芯に、ぞっとするようなしびれが走った。  何を話しているんだろう、この男は……
「500ターレルって……?」
  思わず問いがすべり出た。 男は軽く眉を上げて、ルネの目を探った。
「大陸で、どこかの欲ボケ商人がマイルズを賭けに引っぱりこんだのさ。  阿呆だよな。 マイルズは目も手もすばしっこくて、その気になれば いつでもカードに勝てるんだ。 その欲ボケをカモにして君を横取りする なんて、あいつにとっちゃ朝飯前のことだ。 
 それにしても」
  青年は顔をしかめた。
「マイルズも物好きだなあ。 髪は引っつめだし、格好ときたら、 尼さんが穀物袋をかぶってるみたいだ。 こんなヤボな女のどこがよくて、 わざわざ船に乗せて連れてくるかな」
 
 ルネは、必死の努力で姿勢を保っていた。 
 賭け事の景品……この 見知らぬ青年が知っているなら、近在の人の誰もが聞き、噂にしているに ちがいない。 召使たちに馬鹿にされたのは当然だ。 
 当のルネ一人が それを知らなかった。 モンフォートが無雑作に言いふらしていることも……
「マイルズの考えることは昔からわからなかったよ。 誰にもわかるもんか。  スティーヴとは大違いだ」
  スティーヴ・・・それはモンフォートの亡くなった兄の名前だった。
「スティーヴはいい奴だった。 陽気で金離れがよくてね。 おまけに マイルズよりよほど男前だった。 
 肖像画を見ただろう? 二階の廊下の 突き当たりにかけてあるやつさ。 
 マイルズはいつもスティーヴをねたんで いたんだ。 あいつは嫉妬深い……おそろしく嫉妬深いのさ。 それで奴は スティーヴを殺したんだ」
  男のきれいな眼の奥に邪悪なきらめきが一閃した。 ルネは見入られたように 男を見つめ続けた。
「その話を聞いてるかい? 聞いてないだろうな。 お人よしのオリヴィア 叔母や羊みたいに忠実なクラークが話すわけがない。
  事件は一年前に起こった。 スティーヴが突然消えたんだ。 外国へ行ったと マイルズは言ったが、笑わせるなっていうんだ。 スティーヴが親友の 僕に知らせずによそへ行くもんか。
  3ヶ月ほどして、今度はスティーヴの船が消えた。 それからまた2ヶ月 して、死体が何マイルも離れた村に打ち上げられ、マイルズが確認に行った。  目も鼻もどろどろに溶けて、手足はもげていたそうだ」
  努力して、ルネは無表情を保っていた。 男はまた笑い、爪先で絨毯の 端をめくった。
「まるで辻つまが合わない。 そう思わないか? 
 外国に行っていたはずの 人間が誰にも見られずに帰ってきて船に乗り込み、沖で都合よく難破して、 死体だけが流れついたというのかな?
  おかげでマイルズは次男坊のくせにめでたく跡継ぎにおさまった。  できすぎた話じゃないか」
  ルネの胸に悲哀が生まれた。 
 確かにつじつまが合わない。 だが 皮肉なことに、このとき初めてルネは、モンフォートの無実を確信した。
「あなたがどなたか存じませんが、モンフォート様を少しも理解して いらっしゃいませんね」
  手厳しく言われて、青年の眼が鋭くなった。
「生意気な言い草だな」
「誰にでもわかることを言っているだけです。 
 モンフォート様は 頭の切れる冷静な方です。 思わずかっとして人を殺したか、計画的に 殺害したか、どちらにしても、後始末は徹底的になさるはずです。 
  そんな子供もわかるような矛盾だらけにしておいたということは、 だます必要がなかったから。 モンフォート様はお兄様の死に 全く責任がないんです」
「それが君の弁護か」
  青年は鼻で笑うふりをして、ぶらぶらと机に近づいた。
「理屈の好きな女だ。 本当に尼になって子供たちに教えればいい。  僕はそんなごまかしには騙されないぞ」
  そう言いながら男が横目で様子をうかがっているのを、ルネはもっと 早く気づくべきだった。 
 男は目立たないように足を踏み換え、 突然バネ仕掛けのようにルネに飛びついてキスを奪おうとした。
   判断の時間がもっとあったら、ルネは別な風に振舞ったかもしれない。  しかし、あまりにもとっさのことだった。 
 嫌悪感に我を忘れて、ルネは 男の胸を力まかせに突き、大きくよろめくところを横へ逃げた。
「待てよ」
  男は言った。 本気になっているのがわかった。 
 最後の手段で 悲鳴をあげようと、ルネは思い切り息を吸い込んだ。
 
 そのとき、ドアが開き、モンフォートが入ってきた。 背後にハリー・ クラークを従えている。 
 モンフォートは戸口近くで立ち止まり、 美青年に眼を据えた。
「ここで何をしている」
  青年は一瞬ためらい、相手の出方を待っているようだったが、 間もなくにやにや笑いを始めた。
「実を言うと、お祝いを言いに来たんだよ。 君がイタリア産の 毛並みのいい牝馬を手に入れたと聞いたものだから」
  次の瞬間に起こったことを、少しの間ルネは理解できなかった。  モンフォートの動きがそれほど速かったのだ。 
 しかし、美青年が ゆっくり長椅子の肘に倒れかかり、それから床に落ちたのを見て、 モンフォートが彼を殴り倒したのを知った。
  クラークは怖い顔で立っていた。 助け起こそうともしない。  モンフォートはいくらか青ざめているだけで、何事もなかったような 態度だった。
   青年はそろそろと立ち上がり、ハンカチを顔に当ててどっかと椅子に 座りこんだ。
  「飲み物をくれ」
  習慣でルネが動きかけた。 だがクラークが制して、部屋の戸棚から 酒瓶とグラスを出した。
  青年は手渡された酒を一気に飲み干し、痛む顎をなでた。
「忘れていたよ。 黙り屋マイルズは年に2,3度大爆発するんだってことを」
  モンフォートは時候の挨拶をするような口調で男に言った。
「すぐに出ていくか? それともクラークとわたしに放り出されたいか?」
「あわてちゃいけない。 まずこっちの用件を聞いてからだ」
  男は落ち着いて答えたが、息は荒くなっていた。
「聞くまでもない。 金が欲しいんだろう?」
「人聞きがわるいな。 僕には権利があるんだぜ。 もし、スティーヴが、 生きていたら」
  わざと一語一語区切りながら、青年は嫌味に語尾を引き伸ばした。
「僕にいくらでも用立ててくれただろう。 弟の君も、もっと兄貴の友人を 大事にする気持ちがあってしかるべきだ」
「君はスティーヴの友人じゃない。 ただの従兄弟だ」
「それならなおさら、僕の借金は君の不名誉になるわけだ」
  モンフォートは無表情な顔を美青年に向けた。
「よし、今回は払おう。 よほど困っていなければ、ここには来ないだろう から。 
 だが二度と、この屋敷に足を踏み入れないでくれ。  用事があれば手紙を書け」
「よしてくれ。 僕は君のようなヘボ学者じゃないぞ。 字を書くなんて おことわりだ」
  モンフォートは先に立ってドアから出た。 
 後についていきながら、 美青年は歪んだ微笑を浮かべて、わざとらしくルネに一礼した。
「またお会いしましょう。 シバの女王」
 
   二人がいなくなると、ルネはクラークに急ぎ足で歩み寄った。
「誰ですか?」
  クラークは、口にするのも不愉快そうだった。
「ジミー・ランドール様。 殿様の父君の妹御のご子息です」
「いやらしい人」
  めったに悪口を言ったことのないルネだったが、無意識に言葉が すべり出た。 
 クラークは力を入れてうなずいた。
「不良若様です。 美しすぎるのが災いしたのでしょう」
  思ったとおりだった、とルネは考え、あやうくキスされそうになったのを 思い出して身震いした。


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