表紙

第7章



  やがて食事が終わりかけたころを見計らって、ルネは席をいち早く立ち、 次の準備に移ろうとしたが、急に目の前が海のように揺れ動きコップを倒して しまった。
クラークがとっさに手を貸そうとした。 しかしそのときはもうモンフォートが 横に来ていて、ルネを支えながらウィギンスを呼んだ。
「テーブルの始末を頼む。 ハリー、ルネに庭園を少し案内してやってくれ。  昨日ついたばかりで、まだほとんど何も見ていないんだ」
この言葉には無言の非難が込められていた。 
オリヴィアは具合悪そうに 声を立てた。
「久しぶりにあなたに会えると思ってつい急いで来てしまったのよ。  
悪気はないの。 でももう少し待てばよかったかしらね」

  ハリー・クラークの腕にすがって、ルネはテラスから芝生に降りた。
 ハリーがそっと囁いた。
「お疲れでしょう。 ヴェネチアで2,3か月ほど過ごして、夏にお帰りになった ほうがよかったかもしれませんね」
やさしい言葉にルネは涙が出そうになった。 だが心を引き締めて、 はっきりした声で言った。
「お気遣いにはおよびません。 私はただの雇い人で、いわば小間使いの ようなものです」
ハリーは腕を離さなかった。 むしろ一段と優しく庭のベンチに導いていった。
「マダムこそ気を遣いすぎです。 殿様が家の全権を任された方がただの 雇い人では困ります。 
もっともマダムは、やるときには見事におやりですな。  物静かなわりに堂々としていらっしゃると女中たちが言っておりますよ。  それにいろいろなことをご存知で、みな嫌でも尊敬せずにいられないようです」
ルネの全身から気負いが抜けた。 ハリーは見た目通りの律義者らしい。  おべっか使いのへつらう様子はどこにも感じられなかった。
  しかし、ルネはまだ用心していた。
「男爵夫人のご心配はわかります。 イタリアの避暑地にいた、どこの馬の 骨かわからない女を連れて帰った甥御様を叱るつもりでいらしたんでしょう?」
「それは違います」
歯切れの悪い口調で、ハリーは低く言った。
「オリヴィア様は殿様を心配して来られたのではないと思います。 
殿様は 物静かですが、ご自分のことはご自分で何もかもなさる方です。 あまりきちんとなさり すぎるので誤解されやすく……」
言い過ぎたと思ったらしく、ハリーは口をつぐんだ。 
ルネはハリーがウィギンス よりずっとモンフォートに好意を持っているのを感じた。 それで、英国に来て 初めて自分の立場を説明したい気持ちになった。
「本当にきちんとした方です。 そのうえ清潔で思いやりがあります。 私を救い出して、 ここに連れてきてくださったのを見てもわかります。
私は、学者の父に育てられました。 でも去年、父が肺炎にかかって死に、 私は働きに出ましたが、そこの主人が好色で、高価な置物が壊れたのを私の せいにして、つぐなわなければ牢に入れさせると……」
気がつくと、ルネは涙にむせんでいた。 
ハリーは激しく息をつき、袖口から ハンカチを出してルネに握らせた。
「運が悪すぎた・・・・その一言です。 忘れておしまいなさいとは言いません。  ですが過ぎ去った悪夢として思い出さないようになさい。 すべて過去のことです」

  ルネはしばらく泣いていた。 その間、ハリーは無言でそばについていてくれた。  ルネにとっては天使のようにありがたい行為だった。


  ようやく気を取り直したとき、太陽はだいぶ西にかたむいていた。 ルネは 狼狽して立ち上がった。
「何時ごろでしょう! 私こんなにあなたを引きとめてしまって!  それでお客様は……」
「ご心配は要りません。 気持ちを鎮めるのが先決です。 
もう大丈夫ですか?  よろしい、それでは……泣いた顔をオリヴィア様に見つかるとまた詮索され ますから、少し風に吹かれてから戻りましょう。 今度こそ庭をご案内しますよ」
ルネを疲れさせないようにゆっくり歩きながら、ハリーは木や建物の由来を ユーモラスに要領よく語ってきかせた。 
まもなくルネの涙は乾き、楽しい 話に声を立てて笑うまでになった。 これで大丈夫と見てとったハリーは、 ルネに腕を貸して母屋に戻っていった。


  人々はテラスに出ていた。 二人を見るなり、ガストンが大声を上げた。
「いったいどこまで行っておったんだね? 捜索隊でも出そうかと思って いたところだ」
オリヴィアはじっとルネを観察していた。 
ルネは、まだ涙の跡が残って いるかと思い、こころもち顔をそむけた。 するとオリヴィアは例によって 率直な口調でずばりと言った。
「さっきとは別人のようね。 頬に赤味がさして、目が輝いて。 
わかった!  あなたには運動が足りなかったんだわ。 馬にお乗りなさい。 マットを 散歩させるのもいいわ。 この犬どう見ても太りすぎよ」
ルネが口を開く前に、モンフォートが冷ややかな声で答えた。
「わたしの犬をとやかく言わないでください。 お宅の犬のように骸骨並みに 痩せていないからといってどこが悪いんです? マットは健康なだけですよ」
オリヴィアは思わぬ攻撃に憤然となった。
「健康ですって! この毛色を見てごらんなさい! それに私のレイラを 骸骨犬だなんて、どこを押したら言えるの? 国王にだって誉められた 名犬なのよ!」
席を外していた2時間ほどの間中この調子で突っかかりあっていたのかと思い、 ルネはぎょっとなって険しい空気をやわらげようとした。
「奥様は動物にお詳しいですね。 私は何もわからないので、初心者は どういう馬に乗ればいいか教えていただけたら……」
男爵夫人はにこにこ顔になり、不機嫌をけろっと忘れて薀蓄(うんちく)をかたむけ始めた。
  ルネは適当に相槌を打っていた。 その内偶然ハリーと目が合うと 、彼は茶色の眼を光らせて、なかなかお上手です、という合図を送ってきた。  ルネは目立たぬように顔をほころばせて答えた。
  そのとき、話の流れが急に断ち切られた。 モンフォートのいつにも増して 凍りついた声が割り込んできた。
「叔母上、カートライト家の晩餐会にいらっしゃるなら、もう出発しないと 間に合いませんよ」
オリヴィアは身軽に立ち上がり、椅子に埋まったガストンをせき立てた。 
ルネはモンフォートの後について二人を見送りに出た。 馬車に乗り込む前、再びオリヴィアはじっとルネを見つめ、 手袋を直しながらゆっくりと言った。
「気が向いたら私たちの家にも来てくださいね。 招待状なんて 面倒なものは出しませんから、おひまな時、気軽にね」
思いがけない好意に圧倒されて、ルネは口ごもった。
「こ、こころからお礼申し上げます」


  夫妻の馬車が小道を曲がって見えなくなったとき、空はどんよりと 曇り出していた。 
また暖炉に火を入れようとルネが歩き出すと、 モンフォートが手短かにウィギンスに言いつけているのが聞こえてきた。
「マントをくれ。 散歩に行ってくる」
ルネは急いで告げた。
「空が暗くなってきました。 雨が降り出しそうです」
モンフォートは振り向いた。 顔が青く、緊張しているように見えた。
「雨など何でもない。 マット、来い! マット、このいたずら坊主の 怠けものめ。 もう少し痩せなければだめだぞ」
何かに追われるように出て行く、長身の後ろ姿を見て、ルネは 不安に取り付かれた。 屋敷の外れには海がある。 崖もあるという話を、 さっきハリーがしていた。 今日一日の疲れから、モンフォートがまた 船を見たら……ルネは、そう思いつくと同時に、転がるようにモンフォートの 後を追った。
「私も行きます! 男爵夫人のおっしゃる通り、私も少し運動しなければ!」


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