表紙
 

第6章


 モンフォートが朝7時半に降りてきたとき、 テーブルにはヴェネチアで朝食に出ていた軽焼きパンと果実、それに 鶏のスープが並べられた。
  ルネは、背骨がガラスになって今にもくだけてしまいそうなほど不安な思いで、 息をつめてモンフォートを見守った。
  モンフォートは無表情でテーブルに近づき、まずルネを座らせてから自分の席に ついた。 主人の動作を見て、従僕のロバートがあわてて飛んできたが、 もう後の祭りだった。
  モンフォートはゆっくりパンを味わい、なめらかなスープを飲んだ。  
 それからルネの目をまっすぐ見て、静かに言った。
「イングランドの粉で、よくこの味が出せたね」
  ルネの頬が上気した。 ベリーを口に運びながら、モンフォートは続けた。
「毎朝これで頼む。 季節の果物を替えてくれるだけでいい。  わたしに好き嫌いはないから」
「はい」
  指示がもらえたのでほっとして、ルネはうなずいた。 モンフォートは執事が 持ってきた手紙の束に手を伸ばした。
「今から管理人のクラークに会う。 長い間仕事を放っておいたから、いろいろ溜まって いるだろう。 クラークも一緒に昼食を取るが、かまわないだろうね?」
「もちろんけっこうです」
  クラークが気難しくないことを祈りながら、ルネはわずかに微笑んで見せた。  だがモンフォートは読みかけの手紙に気を取られていてルネを見なかった。
  やがてモンフォートは珍しく眉間に皺を寄せて手紙をテーブルにぽんと載せた。
「叔母のオリヴィアが昼食に来たいそうだ」
「今日ですの?」
  危うく腰を抜かしそうになって、ルネはあえいだ。 モンフォートも困った様子で、 長い指で額を撫でた。
「気をつかう必要はない。 長くはいないだろう」
 

 ルネは腕によりをかけて昼食を作った。 子牛のあぶり肉には特製の ソースをかけ、デザートにスフレを用意し、忠実なメリッサと共に台所を駆け回って いるうちに、疲れと心労で目まいがしてきた。
  しかし、時計が12時を指す頃には、すべてが形になった。 ルネは言いようもなく ほっとした。 
 座り込みたいとも思ったそのとき、庭に馬車の音がして、 オリヴィア・アランデルとその夫、ガストン・アランデル男爵の到着が告げられた。
  後の接待はウィギンスに任せることにして、ルネは早々に退散し、 裏階段から自室に戻った。

 だが束の間の息抜きも許されなかった。 ルネが這うようにしてベッドに 身を投げるのとほぼ同時に、ドアにノックの音が響き、ロバートの気取った声が モンフォートの意志を伝えた。
「殿様はマダムにもお食事を一緒にしていただきたいとのことです」
  初めてルネは泣きたくなった。 いったいどこから気力を見つけてくればいい のだろう。 
 それでも綿のように疲れた体に鞭打って服を着替え、髪をまとめて、 ルネはゆっくりと階下に向かった。
 

 人々は『ライオンの間』に集まっていた。 ルネが入っていくと話し声が止み、 視線が集中した。 
 卑屈にだけはなるまいと思い、ルネは奥歯を噛みしめて 静かにドアを閉めた。
  モンフォートが叔母たちから離れて歩いてくるのが見えた。 彼は、めったに ないことだが、ルネの手を片手でぎゅっと握りしめて客たちに向き直り、 持ち前の沈んだ声で紹介した。
「ルネ・シャルランです」
  ばらばらと挨拶が返ってきた。 モンフォートは身をかがめるようにしてルネに言った。
「こちらが叔母のオリヴィア、こちらがアランデル男爵、それにこちらが ハリー・クラークだ」
  モンフォートがそばにいるので少し落ち着いて、ルネは膝を折って人々に挨拶した。
 オリヴィア・アランデルはルネが想像していたような尊大な貴族ではなく、 大柄なたくましい体つきの美人で、動物好きらしく、モンフォートの愛犬マットを 撫でさすっていた。
  ガストン・アランデルは赤ら顔の典型的な田舎紳士だった。 どちらもルネが 考えた半分も恐ろしい存在ではなさそうだったが、やはりルネは第三の人間、 管理人のハリー・クラークの顔が一番気に入った。 ルネを見上げたクラークの眼が 不思議な優しさをたたえていたからだ。
  オリヴィア夫人は犬を撫でるのをやめて、モンフォートが席に着かせた娘を いぶかしげに眺めた。 そして野外向きの大声で言った。
「まあ、この人、考えていたのと全然違っていたわ。 どう思って、ガストン?」
  ガストンは嗅ぎ煙草を使い、わけもなくにこにこしながら、ガラガラ声で答えた。
「そうだな、ずいぶん違っている。 うん、違っているよ」
  どう違っているか言わないので、ルネは居心地悪くなった。
  しかしそのとき、クラークが助け舟を出してくれた。
「今時分のヴェネチアはさぞよろしいことでしょうな、マダム」
  ほっとして、ルネは小声で応じた。
「ええ、とても快適です。 天気がそれはよくて。 雨が降ったのは一日しか ありませんでした」
  オリヴィアが目をむいて体を乗り出した。
「あなた、イングランドに住んだことがあるの?」
「いえ」
  たちまちルネは固くなった。 しかし、オリヴィアは容赦しなかった。
「そんなに見事な英語を話すのに? マイルズとはフランス語で話すようね。  どこの出身なの、あなた?」
  よほど取り乱し、あがっていたのだろう。 ルネはマイルズという聞きなれない 名前が誰を指すのか推察できなかった。
「マイルズ? どなたですか?」
 
 あっけに取られた沈黙が続いた。 それからガストンがわっと笑い出した。
「これは問題だぞ。 偽名を名乗っていたんじゃないか? え、マイルズ?」
  ルネは凍りついた。 モンフォートの眉がぴりっと動いた。 
「名乗らなかったんです。 ただそれだけのことですよ」
「奇妙な具合ね」
  オリヴィアは口を尖らせた。
「それじゃこの人はあなたを何と呼ぶの?」
「呼びません」
  と、モンフォートは手短に答え、話題をヴェネチアに戻した。
  中心を避けた同心円のような会話がしばらく続き、やがてルネが、 そしておそらくモンフォートもほっとしたことに、ウィギンスが昼食を知らせに来た。
 
 
 食事は思ったよりはるかに楽しく運んだ。 料理が客たちに喜ばれたので ルネは胸を撫で下ろし、いくらか誇らしく感じた。 
 食いしん坊のガストンは スフレを一口食べて目を丸くし、声をひそめてモンフォートに尋ねた。
「料理人を変えたな。 何という味だ! これはどうしても君のコックを 取り上げずにはいられん。 なあ、マイルズ、半年でいいから貸してくれよ」
  「モンフォートは微笑した。 ひらめくような微笑・・・・ルネがはじめて見る 邪気のない笑顔だった。
「叔父上の頼みでも、それだけは駄目です。 コックはそこにいますから」
  モンフォートの視線が指す方向をたどって、ガストンは二度びっくりした。
「まさか……こりゃ大したものだな」
  オリヴィアもルネを見直したようだった。 もう詰問調をやめて、陽気に話し出した。
「いろんなことのできる人ね。 お年はいくつ?」
  ルネは低く答えた。
「18です」
  オリヴィアの眼が隅々まで観察するのがわかる。 年に似合わない地味な 格好だと思っているはずだ。 
 嫉妬深いファン・ヨースは、年ごろの娘が 着るような華やかな服は一切買ってくれなかった。 すべて黒か紺色の、 目立たないサージの服ばかりだった。 そして、モンフォートがいくらでも買って くれた生地で服を仕立てるには、時間があまりにも足りなかった。
「年のわりには落ち着いているけど、やはり顔はかわいいわね」
  かわいいだろうか。 ルネにはわからなかった。 
 16歳のとき、父の弟子に 詩を贈られたことがある。 明けの明星とか夜露の輝きとか書いてあったが、 詩には美辞麗句がつきものだから、自分のこととは思えなかった。
「かわいいというより、お美しいです」
  左隣からおだやかな声がした。 管理人のクラークだ。 30代半ばの気持ちの いい顔をした男で、先ほどから皿を取ったり、調味料を回したり、さりげなく 気をつかってくれていた。 まるで年の離れた兄のようだ、とルネはふと感じた。
「皆さん、ご親切に」
  ルネが控えめに言うと、クラークは微笑んだ。
 

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