表紙



第5章 イングランド 


 ドーバーの港に着いた日、海は暗くよどみ、小ぬか雨が絶え間なく視界を 濁らせていた。
  フードを被りなおして襟元をしっかり留め、ルネはモンフォートの手を借りて、 おぼつかない足取りで船を下りた。
 
  おとといまでの3日間、ルネは夢のような日々を過ごした。 モンフォートは ヴェネチア中の名所をくまなくといっていいほど回り、本物の城を2つも 見せてくれた。 そして、次々に渡される贈り物の山、また山…!  宝石や砂糖菓子でルネのほっそりした体が埋まってしまいそうなほどだった。
  ドレスを仕立てる時間がなかったので、代わりに布地を買ってくれた。 黙って いるといくらでも買いたがる。 終いにルネが止め役に回らなければならなかった。
  すべてが度を越していた。 喉に無理やり餌をつめこまれるガチョウのように、 ルネは疲れ、心配になってきた。
(伯爵は何がそんなに不安なのだろう。 まるで毎日私に物を贈っていないと 逃げられてしまうみたいに)
  だからフランス経由でイングランドに戻ると決まったとき、思い切ってモンフォートに 提案した。
「やさしくしてくださるのは本当にうれしいんです。 感謝で一杯です。
  でもこんなにお金を使ってしまうと、私は領地の方々から悪い女だと思われます。
  もう一生分いただきました。 ですから少しでもお返しをさせてください。  家事なら少しはできますから、お屋敷では家政婦をやります。 やらせてください」
  モンフォートは窓辺に歩み寄って、しばらく無言でほこりっぽい大通りをながめていた。
  怒らせてしまったかとルネが身をちぢめたとき、彼は不意に肩越しに振り向いて微笑した。
「すべて君の望み通りに」


  雨は間もなくやんだが、雲は厚く垂れこめていた。 
 しかし、 港を離れてロンドンに入り、すぐにそこも出て、並木道を馬車で揺られていく内に、 次第に青空が広がってきた。 そして、午後にモンフォートの領地に入った時には 空は一面に晴れ渡り、五月の柔らかい光がレース模様を作って道に散り敷いた。
  ルネは微笑に顔をほころばせて、年端のいかない少女のように美しい景色に見とれた。
 うねうねと連なった小道を通り抜けると、不意に視野が開けて、 壮麗な館が姿をあらわした。 これがデスモンド・パーク・・・・広大な庭園と館とが 織り成す圧倒的な美しさに打たれて、ルネはたじろいだ。
  だが、モンフォートは見慣れたものとしてほとんど興味を見せず、 静かにルネを促して、玄関に向かった。
  ずらりと並んだ召使の一個小隊を見て、今度こそルネは逃げ帰りたい気持ちに 駆られた。 モンフォートは、先頭に進み出てうやうやしく礼をした老人に、 澄んだ声で話しかけた。
「ウィギンス、今帰った。 この人が手紙で知らせておいたルネ・シャルラン・フライブルクだ。 今後は家の中のことは彼女に任せるから心得ておくように」
  ルネは、不意に背中を強く叩かれたように息が詰まった。

(家のことをすべて任せる? そんな大変なこと、この私が……!)
 
「かしこまりました」
  と、執事のウィギンスはしわがれた声で答えた。 訓練された能面のような 表情からは何を考え何を感じているかまったく読み取れなかった。
  ルネは勇気を奮い起こしてしゃんと姿勢を正した。 最初が肝心だ。  若くとも、ファン・ヨースの広い家を切り回し、口やかましい年上の女中や コックと肩を並べて働いた経験は生かせるはずだ。 ここもあそこと同じ。  ただ規模が大きくなっただけなのだ。
 
 
  案内されたのは、二階の東側の部屋だった。 ベッドの横に荷物を置いた とたん、モンフォートが言った。
「ウィギンスに命じて小間使いを用意させた。 2人来るから好きなほうを選びなさい」
  ルネはあっけに取られた。
「でも私はそんな身分では……」
「君はこれから忙しいんだ」
と、モンフォートが遮った。
「といって身なりを構わずに走り回られても困る。 朝晩の着替えや 自室の掃除は小間使いにやらせなさい。 わかったね。
   ただし今日一日は客でいるように。 すべては明日からだ」
  伯爵が去ると、ルネは自分用に決められた部屋を改めて見渡した。
  息が止まるほど素敵な部屋・・・・ルネにはそう思えた。 上品できゃしゃな調度品。  触れるのが惜しいような書き物机。 霧のヴェールを思わせるカーテン。  この館は外観だけでなく中身も限りなく美しい、とルネは心の中で呟いた。
 
 
 夕食のとき、ルネはさりげなく召使の動きや皿の配置、料理の数と種類を観察し、 心に刻んだ。 献立は豪華だが無駄が多く、調理はけっこういい加減だ。  ウィギンスは際立った執事と言えるが、年がいっているためか穏やかすぎるのか、 男の召使たちの教育が行き届いているとは見えない。 
  テーブルの向こうで超然とナイフを動かしているモンフォートは、召使のロバートが 皿を落としてもワインをつぎそこねても、例によってほとんど意識していないらしく、 文句1つ言わなかった。
  食後、ルネは台所に行き、大柄で眼のいきいきしたメリッサという少女を選んだ。  いかにも田舎風で純朴だったし、何より最初にルネが馬車で伯爵領に入ったとき、 はちきれそうな笑顔で手を振ってくれた娘だったからだ。
  他にはそんな子はいなかった。 女中たちにしても、表面は丁重だが うさんくさそうな目でそっと盗み見るばかりだった。
  メリッサは大喜びで、さっそくルネの後ろに従って二階に上がった。
  メリッサがどうしてもやらせてくれというので、ルネは髪を解くのを任せた。  黒いなめらかな髪を赤くふくれた手に受けて、メリッサは心から感嘆した。
「すてきな髪ですねえ。 こんなにつやつやして、腰までたっぷりあって」
  飾りの少ないルネの夜着や下着にも、メリッサはいちいち感心した。  しまいにルネは可笑しくなって、早々に少女を寝床に追いやった。
 
 

 翌朝、ルネは6時に着替えを済ませて階下に下りた。
   前日モンフォートから間取りを聞いておいたので、迷わず居間に入った。 そこはカビくさく、暖炉棚の花はしおれて垂れ下がっていた。 
 
(ご主人が久しぶりにお帰りになったというのに、こんなにだらけて)
 
  ルネは腹立たしくなり、きしむ窓を勢いよく開けて新鮮な空気を入れた。
  窓越しに人声が聞こえた。 召使たちはもう起きているらしい。  ルネは呼び鈴を強く引いた。
  だいぶ経ってからスーザンという女中が のっそりと入ってきた。
  ルネはスーザンなど少しも怖くなかった。 いくらか眉を上げて、 まっすぐ牛のような女中を見据えると、ルネはきりっとした声で言った。
「この部屋は何日も、ひょっとすると何週間も掃除をしていないのね。  窓も閉めっぱなしだったようね。 それに花も枯れているわ。 すぐ活けなおすようにね」
  スーザンは明らかにたじろいだ。 一瞬反抗しようかどうしようか考えあぐねている のを見て、すかさずルネは攻撃に出た。
「それから献立表を持ってくるように料理人のダガースに言ってください。  今後は私が必ず目を通します」
  これは図星だった。 スーザンとダガースが張り合っているのを昨日見抜いておいた のが役に立った。 自分が年下の外国女に叱責された恨みより、 仇敵がこれから叱りとばされるのを喜ぶ気持ちが勝ちを占めて、 スーザンは中途半端なお辞儀をすると引っ込んでいった。
  ルネは新しい戦いに備えた。 

 予想通り、ダガースは憤然として乗りこんできた。
「あたしは女中から言伝てを受けるような身分じゃございません。  あたしはれっきとした…」
  献立を調べて、ルネは案の定だと思い、怒りがこみあげてきたので、 ダガースを冷たくさえぎった。
「この鮭はきのう出してあったものでしょう?  側卓にあったのをちゃんと見てましたよ。
  私はあたたかい料理がほしいんです。  台所でも冷たくなった料理を欲しくないと言うのなら、捨ててしまえばいいわ」
  ダガースは息を呑み、口をつぐんだ。 ルネは更に切り込んだ。
「他の料理は思いつかないなどと言っては困りますよ、ダガースさん。  どんな場合でも間に合うように献立を用意しておかなければ」
  ダガースは追いつめられ、最後の意地にしがみついた。
「ともかくあたしは若殿の雇い人ですからね。  他の人の命令に従う理由はありませんよ」
  ルネは平然と、二倍以上年上の料理人を見おろした。
「私の命令は殿様の命令です。 あなたが私をどう思おうと知ったことでは ありません。 自分の立場を心得てください。
  この献立は作り直すように。  それが出来ないなら辞めてもらいます」
  タガースの顔が朱に染まった。 怒ったというより、実際に料理のレパートリー が少なかったのだ。 かっとのぼせて、ダガースは声高に叫んだ。
「じゃあこっちから辞めますともさ! 今日の食事はどうします?  町に行ってあんたが気に入るような料理人を探してきたって半日はかかりますよ!」
  ダガースが大きな足音を立てて去った後、ルネは歯をくいしばった。
 
  (負けるもんか。 あんな頑固者の三流コックなんかに!)
 
 ルネは気持ちを落ち着けるために庭に出て、よくできた大輪のバラを摘み、 雪花石膏の花瓶に華やかに盛った後、ダガースがいなくなって大喜びしている スーザンと共に、居間と《朝の間》を掃除し、暖炉に日を入れ、居心地よく整えた。
  その間もルネは考えていた。 伯爵は好き嫌いをほとんど語らない。  まったくないのか、またはどうでもいいのか。
  ここはやはり、彼を昔から知る人に聞くべきだ、とルネは考えた。  それはウィギンス以外にはない。 ルネは邸内をそっと探して、 二階の廊下で絵の額を直しているウィギンスを見つけた。
「ウィギンスさん」
  ウィギンスはゆっくり振り向いてルネを見ると、踏み台から降り、低い声で返事した。
「御用ですか、マダム?」
  ウィギンスはこの館の主のようなものだから、ばかにされてもかまわない、 とルネは考え、素直に尋ねた。
「お訊きしたいの。 モンフォート様は毎年今ごろには何を召し上がっているのか」
  ウィギンスは謎めいた眼でルネを見た。
「それは殿様にじかにお訊きになった方がよろしいと思いますが」
  ルネはたじろいだ。
「いえ……伯爵を家事のことでわずらわせたくないんです」
   ウィギンスはわずかに首をかしげて、穏やかに答えた。
「そうですな。 当代の殿様は何をお出ししても黙って召し上がりますが…… 時にはご自分が何を食していらっしゃるのかおわかりにならないこともある ようで……でも、先代のスティーヴン様のときは……」 
  ウィギンスの眼が次第に輝きはじめた。 朝食に厚切りハム、ベーコン、 オートミールに果物、菓子、その上に鶏の丸焼きをぺろりと食べたことが あるという。 朝からそんなものを食べたら夜まで空腹にならないのではないかと、 ルネは開いた口がふさがらなかった。
 そのうち、ルネは気づいた。 ウィギンスは単に昔を懐かしんでいるだけではない。  当主のモンフォートを先代と比べて、多くの点で先代に軍配を上げ、 なつかしんでいるのだ。 今のモンフォートを嫌いではないらしいが、先代、 つまり兄のスティーヴンに比べれば問題にしていないのが、 言葉の端々から聞き取れた。
  ルネはむらむらと反抗心を起こして顎を上げた。 やたらに食べ、飲み、豪快に笑い、 馬や犬を駆って野山を走り回るだけが男ではないはずだ。
  あなたには今の殿様の強さ、聡明さが理解できないの?  と、ルネは胸の中で叫んだ。 そして、無意識に威厳を持って言った。
「そうですか。 それなら当代のモンフォート様には、 あの方にふさわしいお食事を私が考えます」


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