表紙

    

第3章


 こうして、ルネのささやかな願いは思わぬ形で叶えられることになった。 
  伯爵は小型の馬車をあっという間に借りてきた。 ルネは、雲を踏む思いでその馬車に乗り、 モンフォートの巧みな手綱さばきに任せて、石畳の街を揺られていった。
  モンフォートは本当に口数の少ない男だった。 しかしルネは少しも気詰まりでは なかった。 物静かでも、その午後の伯爵は放心状態ではなく、眼をきらきらさせて、 彫像やフレスコ画、ステンドグラスなどを眺めていたからだ。 伯爵も芸術に興味がある らしいとわかって、ルネはうれしかった。

 楽しい時間は羽が生えたように過ぎ、日が傾いて影が長くなってきた。  ルネはためらいがちに伯爵に、もう帰らなければと仄めかした。
伯爵は目を細めて空を見上げ、ぽつりと言った。
  「そうですね。 ただ、帰る前にもう一箇所寄っていいですか?」
 
  それは、港に近い小高い丘だった。 
 非常に景色のいいところで、ルネは飽かずに 眼下に広がる町を眺め、あれが最初に行った広場、あれが二番目の寺院、 と指折り数えた。
「あそこのファサードは宮殿のようでしたね。  といっても、まだ宮殿に行ったことはないんですけど」
  息を弾ませて話しかけた言葉に答えはなかった。
 
 ルネは一度に心細くなって、急いで辺りを見回した。
  モンフォートは丘の外れに立っていた。 ルネが近づくと、そこは切り立った崖で、 目まいがするほどの高さだった。 下を覗いてたじたじとなったルネは、 思わず伯爵に身を寄せた。
  彼は動かない。 顔を振り仰いだルネは、伯爵が再び焦点の定まらない眼をして、 水平線にさまよわせているのを知った。
  伯爵はルネを忘れ去っていた。 口の中で何かをつぶやくと、一歩踏み出した。  それからまた一歩。 足元の崖縁が崩れて、小石がはるか下の海面に落ちていった。
  とっさにルネは、口で注意しても間に合わないと判断して、モンフォートの胴に腕を 巻くと力いっぱい後ろに引いた。 モンフォートは均衡を失って腰くだけになり、 ルネの上に倒れかかった。 二人は勢い余って草の上に転がった。
  勢いで脱げた男の帽子が、ひらひらと舞って崖下に消えていった。
  伯爵は荒い息をついて半身を起こし、もう一度海の彼方を見つめた。 それから、 がっくりとうなだれてうつ伏せに横たわった。
  ルネは本能的に彼の危機を察して、そっと肩に手をかけ、子供のように撫でた。
  モンフォートはわずかに顔を上げた。 青ざめた頬に草の葉の跡が痛々しくついていた。
  人が変わったような濁み声で、伯爵はささやいた。
「幻だった。 わたしは幻を見た。  ああ、神さま、わたしは正気を失いかけているんだ……」
  長年続いた家系では、さまざまな異常が出やすいということを、ルネは知っていた。
   だが少しも恐れは抱かなかった。 ルネは不思議な力を感じていた。  狂気の瀬戸際にいる青年をしっかり捕まえて連れ戻そうと、ただそれだけを 考えていた。
「もう大丈夫」
  ルネは暖かく囁きかけた。
「あなたはもう安全です、モンフォート様」
  モンフォートは弱々しく手を振り回した。
「てもあれは……あの幻覚は……」
  海に浮いているもので一番多いのは……ルネは大胆に推理して言った。
「船ですね」
  モンフォートの口から激しい吐息が漏れた。
「そうだ! 3本マストの…… あなたにも見えたのか?」
  ルネは港の入口に眼をこらした。 何も見えるとは思っていなかったが、 不意に黒い影がちらつくのを感じて、思わず中腰になった。
  次の瞬間、ルネは飛び上がって両手を打ち合わせた。
「モンフォート様のお目のいいこと! 船です! 確かに3本マストの!  港に入ってこようとしています」
  モンフォートも膝をついて手をかざした。 だがすぐに顔をそむけてうずくまった。
「確かに船だった……」
  でも心に見た船とは違ったのだとルネは推察した。 しかし船は船だ。  伯爵が妄想を起こしたのではなかったので、ルネは泣きたいほど嬉しかった。
 
 草の上に座ったままの伯爵に、ルネは体を預けるようにして寄りそっていた。  帽子を風にさらわれて茶褐色の髪を額に振りかからせている伯爵は、 親を失った子供のように見えた。
  ルネは、愛しさに我を忘れてその髪に口づけた。 おそらく彼は気がつかない だろうと考えて。
  しかし、はずみで触れた口づけに対する反応は大きかった。 モンフォートは 激しく顔を上げるなり、体全部の重みをかけてルネに抱きついてしまった。
  ルネの目前に虹が広がった。 昨日逢ったばかりの人、モンフォートという苗字 だけで名前も知らない人に、今ルネはすべてを与えようとしていた。
(これは恋じゃない。 失った青春の光がほしくて、恋に恋しているだけなんだ)
  それでも素晴らしかった。 
 彼が不器用なのさえ嬉しかった。  遊び人ではない証拠だから。 そっと手を添えて導きながら、もう片方の手で、 ルネは強く青年を抱き寄せていた。
 
 
 周囲が夕闇に包まれた頃、ルネは無言で立ち上がった。 伯爵も無言だった。
 二人は丘を降り、馬車に乗った。 ルネを助け乗せるとき、モンフォートは小さな手を持ち上げて唇をつけた。
 それから二人は黙ったまま、宿に向かった。
 
  ルネは宿の中庭を飛ぶように走り抜けた。 息を切らせながら部屋に入ると、 そこには誰もいなかった。 護衛役のペーターも、ファン・ヨースも。
  それから半時間ほどして、ファン・ヨースが意気揚々と戻ってきた。 賭けに 大勝したというので、ひどく機嫌がいい。 道に迷ったという口実を使わずにすんで、 ルネはほっとした。
  ペーターは真夜中、ぐでんぐでんに酔って帰ってきた。 へべれけでも ルネを見てほっとした様子で、つい知り合いと深酒してしまって、 とこっそり言い訳した。
 ルネは、ファン・ヨースには内緒にすると約束した。  これでペーターに借りを作れたわけだ。


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