表紙

第2章


 その日の午後2時ごろ、ファン・ヨースは海にほど近い社交場にルネを連れて行った。 
  広い芝生では九柱戯に興じていて、華やかな歓声が中まで響いてくる。 しかし、 ファン・ヨースは相変わらずカード三昧で、幸運の女神がどうのと言いながら、 ルネを横に座らせておくのだった。
  賭け事は嫌いだ。 闘犬も、蛇の手品も、みんな嫌だった。
   だが、ルネの好きな散歩やダンスは、ファン・ヨースにとってはただ疲れるだけの ばかばかしいもので、まったく相手にしてもらえなかった。
  だから結局、その日もやっと一時間我慢して、とうとう人いきれに気分が悪くなり、 ルネは先に宿に帰るとファン・ヨースに告げた。
  ファン・ヨースは機嫌を損ねて唸った。
「陰気な女だ。 帰りたければ帰れ。 裏小路に入らないよう気をつけるんだぞ」


 地味なフード付きマントをまとい、足を速めてルネは宿屋への道を急いだ。
 すぐ後ろからいつものようにペーターがついてきた。  布製の靴をはいているから足音がしない。 ルネは彼が不気味だったが、こういう知らない土地では 頼もしくもあった。
  不意に角を曲がって楽隊がやってきた。 婚礼のお祝いらしい。  ルネは街の人と共に、笛や太鼓、それに小さなドラまでついた賑やかな楽隊をしばらく楽しんだ。
  やがて楽隊は町の彼方に消え、人々は家に引っこんでいった。
 蝿が群れ飛ぶ暖かい午後は、昼寝をする人間が多いらしい。 道は閑散として、時おり子供の騒ぐ声が風に乗って響くだけになった。
  いろんな事を思いつなぎながら歩いているうちに、胸騒ぎがし始めた。 背後にかすかな足音がする。 いくらか距離はあるようだが、もう10分以上も、つかず離れずついてくる。
  ペーターに注意を促そうとして、ルネはフード越しに振り返った。
  ペーターは、いなかった。 ぎょっとして、ルネはすぐに足を止め、素早く周囲を見渡した。
 確かにいない。 ペーターの骨太な姿は、通りのどこにも見当たらなかった。
  とたんに、不安が二倍になって襲いかかってきた。 引き返そうか……だが、 道がわからなくなる心配があった。
(早く宿に帰り着こう。 真昼間なのだから、危険は少ないはず)
  念のためにフードを深く引き下ろして、ルネはいっそう速足で歩き出した。
その時、ぎょっとするほど近くで若い男のふざけた声が聞こえた。
「顔を見せなよ。 かわいがってやるぜ」
  ルネの全身が総毛立った。 やみくもに走り出すと、下卑た笑い声が追ってきた。 
  ルネは無我夢中で走りに走った。 足が続くかぎり一歩でも男から遠ざかろうとして。
  四つ角を駈け抜けたとたん、何かが目の前をふさいでルネと衝突した。
  ルネは悲鳴を上げた。 衝突物はルネの両腕をつかみ、聞き覚えのある声で言った。
「わたしですよ。 こんなところに入り込んで何をしているんです」
  あえぎながらルネは顔を上げた。 モンフォート伯爵の厳しく美しい顔が見おろしていた。
  張りつめた緊張が一度に崩れて、ルネは座りこみそうになった。
「道に……迷ってしまって……」
「家に送ってあげなければならないのは、あなたの方らしい」
  伯爵の声には微笑がこもっていた。 ルネは恥ずかしくなってうつむき、低く言った。
「そうしていただければありがたいと思います」
「喜んで」
  二人は並んで歩き出した。

  何を話したらいいか分からなくて、ルネは黙っていた。 伯爵も無言だった。
  伯爵は何歳だろう、とルネはふと考えた。 
 30から35の間ではないかと思われた。  だが、そう見えるのは落ちついた動作のせいで、実際はもっと若いのかもしれない。
 とりとめなく考えつないでいく内に、ルネは知らずに独り言を言っていた。
「28、さもなければ29」
「何がです?」
  たちまちルネは赤面した。
「私、失礼なことを言ってしまって。 おいくつぐらいか想像していたんです」
  モンフォートの口元がほころんだ。
「わたしなら22です」
  ルネは足を止めそうになった。 
(22歳! たった4つしか違わない。 同年代の若者なんだ……!)
  ルネは甘ずっぱい思いに囚われた。 
(両親が生きていたら、私も伯爵ぐらいの年の青年と語りあい、散歩に行き、踊っただろう。  他の娘たちのように、くったくなく、明るく)
  だが、すぐにルネは感傷的な気分から抜け出した。
  時間を戻すことはできない。 今を精一杯生きなければ。  素敵な若殿と肩を並べて歩いている、この思わぬひとときを。
(この人は夜のように暗い。 それに、礼儀正しいがいつも上の空で、 私がいることをすぐに忘れてしまうようだ)
  だからこそ、ルネは気が楽だった。 
 昔の身分でも、伯爵は雲の上の人だった。  まして今では比較するのもばかばかしいほど隔たりがある。 かえって意識しないで 話ができた。
  ルネは、自然に浮かび出た微笑みをモンフォートに向けた。
「この町を落ちついて歩くのは初めてです。 きれいな宮殿や有名な寺院がたくさん あるそうですが、近くへ買い物に出かけるのがせいぜいで」
「それなら連れていってあげましょう」
  と、モンフォートはこともなげに言った。 ルネは息を引いた。
「私、そんなつもりで言ったのでは……」
「わたしが行きたいのです」
  伯爵の声は、いつもながら沈んだ響きを持っていた。
「一人で歩き回ってもつまりませんから」


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