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アンコール!  132 来年の希望



 冷たい飲み物とケーキやアイスクリームを楽しんだ後、大人と一二歳以上の子供たちは宝探しゲームを始めた。 手がかりはハリーが新しく雇った秘書ゴードン・モリスと二人がかりで一週間かけて作ったもので、やさしすぎず難しすぎず、しかも庭園から湖まで景色のいいところをぐるりと回るようにうまく用意されていた。
 一八人の客はくじを引いて三人ずつ六組に分かれた。 ヴァレリーも参加したがったのだが、まだ着いたばかりだから休まなくてはとトマスに言われ、日陰のテラスに座って審判役のヘレナと積もる話を始めた。
「ここは本当に森の中の夢の国ね。 ブライトンもいいけど最近は少し騒がしくなってきたわ。 観光客が多いし」
 同じサリー州にあっても、この屋敷は中部の古都ギルフォードに近く、一方ヴァレリーたちがいるブライトンは南の端で、海の見える保養地だった。 海岸にあるため気温の変化が少なく、よい医者がいるという理由で、トマスが別荘をわざわざ作ったのだ。
「遊び場が多いから子供には楽しいでしょう? 劇場や公園、それに音楽隊やサーカスもあって」
「うちの子は何ていうか、自然児なの」
 そう言って、ヴァレリーはくすりと笑った。
「アーサーが木登りと綱登りを大好きなのは知ってるでしょう? 最近は馬にも夢中で、ポニーに乗るとなかなか下りてこないの。 それにプリシラも見かけはお嬢さんっぽいし、あの年にしては刺繍や縫い物が上手だけど、本当にやりたいのは庭仕事なのよ。 トマスが日光を気にするので表ではなかなかできなくて、温室に入ってせっせと植え替えの手伝いなんかをしているの。 見ているといじらしいわ」
「あなたもプリシラも温室育ちの花になりそうね」
 ヘレナは冗談めかして言ってみた。
「トミーが春先に腕を折ったとき、ハリーが言ってたわ。 人生は何があるかわからないから、早いうちに痛さを知っておいたほうがいい、そうすれば次から無茶なことをしなくなるからって」
 ヴァレリーは真面目な顔で親友を振り返り、ためらわずに答えた。
「私もそう思うの。 特に男の子はそうよね。 今は家庭教師に教わっているけど、そのうちイートンに入れば苦労するんだもの」
「イートンに決めたの?」
「ええ、トマスはやっぱり自分の母校に入れたいらしいわ」
 少し間を置いて、ヴァレリーは溜息のように低く付け加えた。
「いくら頼もしい父親でも、一生子供たちを守りつづけることはできないでしょうに」
 ヘレナは黙ってヴァレリーの手を握った。 ヴァレリーはちゃんとわかっているのだ。 だがトマスの不安は理性からではなく感情から来ているので、克服するのは難しいようだ。


 そのとき背後から影が差して、ヘレナの肩に温かい手が置かれた。
 振り向く前から誰かわかった。 ヘレナは斜めに伸びあがるようにして、夫と軽く唇を合わせた。
「おかえりなさい。 うまくいった?」
 ハリーはヴァレリーに笑顔で挨拶した後、椅子にくつろいで帽子を脱いだ。
「なんとかまとまったよ。 きつい交渉だった。 ヴァレリー、すっかり顔色がよくなって健康そのものだね」
 ヴァレリーも明るい微笑で応えた。
「ええ、そうなの。 ここからクレセント湖まで走っていけそうよ」
「それはいい。 でもヘレナは一緒に走っちゃいけないよ。 来年の初めまではね」
「まあ、そうなの? おめでとう!」
 ヴァレリーはすぐ悟った。 彼女の気持ちを思って言い出せなかったヘレナも、ハリーがあっさり口にしてくれたことで救われた気分になった。
「ありがとう。 今度はたぶん女の子だと思うの。 これまでの三人では全部予想が当たったわ」
 三番目の男の子マシューは一歳半。 この辺りで水疱瘡〔みずぼうそう〕がはやっているので下には降ろさず、二階の子供部屋で乳母と遊ばせていた。 さっきヘレナが見に行くと、ベッドでお昼寝している最中だった。


 宝探しは順調に進み、最初の発見者たちが大喜びで帰ってきた。 半時間後には二組が仲良く戻り、すぐ続いてもう一組が汗を拭きながら姿を見せた。
 ヴァレリーが強引に参加させたトマスは、開始から一時間が過ぎても戻ってこなかった。 心配というほどではないが、夫が見えなくて寂しくなったヴァレリーが立ち上がり、湖のほうへ探しに行ってみるとヘレナに言った。
「じゃ、私も一緒に行くわ」
 ハリーもすぐついていこうとしたが、ヘレナに笑って押し戻された。
「だめ。 まだ二組ゴールしてないわ。 審判がいて迎えてあげなくちゃ」
「私も行っていいですか?」
 そう申し出たのは、町長の娘のユーラだった。 そこで三人は日傘を差して、のんびりと湖へ足を向けた。


 クレセント湖をぐるりと取り巻いて、気持ちのいい散歩道が作られていた。 一部は並木になっており、大きな枝が傘のように上をふさいで、日照りをさえぎっている。 ここちよいそよ風に吹かれながら歩いていった三人が船着場にさしかかったとき、突然悲鳴と水音が聞こえた。
 夫が来ないかと辺りを見回していたヴァレリーが、真っ先に気づいた。 百ヤード(約九十一メートル)ほど離れた水面に、小さな頭が浮き沈みしていた。 おそらく岸辺に立つ大木の枝からすべり落ちたのだろう。
 その頭が黒っぽい色をしているのを見て、ヴァレリーは息が止まりそうになった。
 アーサー!
 考えるゆとりなどなかった。 足が勝手に動き、ヴァレリーは全速力で子供がもがいている水辺に走った。
 ヘレナはすぐユーラに叫んだ。
「うちへ戻って、泳げる男の人を呼んできて!」
「はい!」
 十七歳のユーラは跳ぶように走っていった。
 それからヘレナはヴァレリーの後を追った。 転んではあぶないので並木の傍を進み、木の幹を支えにしてできるだけ早く移動したが、ヴァレリーは風のように速く、ヘレナが追いつく前に岸辺に立つと、邪魔になるスカートを一気に脱ぎ捨てて水に飛び込んだ。
 ヘレナは思わず叫び声を上げた。
「ヴァレリー! 待って! 今助けが……」
 見事な泳ぎだった。 しなやかな魚のように水を切って進み、ヴァレリーはあっという間に子供に近づくと、沈みかけた小さな体に腕を回して足を力強く蹴って戻ってきた。
 待ち構えていたヘレナが、ぐったりと重くなった男の子を受け取って引き上げた。 その後から上がってきたヴァレリーは、仰向けになって咳をしている子供の顔を見て、ほっとしたあまりに膝をついてしまった。
「アーサーじゃない」
 子供の体を返して水を吐かせながら、ヘレナは早口で答えた。
「ええ、違うわ。 この子は園丁のグレッグの子でジャッキーだわ」
 いたずら坊主はもう起き上がっていた。 目をこすり、鼻水を垂らしている。 やがて恐怖がよみがえったのだろう。 大声で泣き出した。
 そこへ人々が駆けつけてきた。 ヘレナはその寸前にヴァレリーにスカートをかぶせてウェストを止め、ハンカチでできるだけ濡れた髪を拭いているところだった。
 助けに来た男たちの中には、トマスとハリーもいた。 ハリーはすぐ腰をかがめて妻に事情を訊いた。 その彼を押しのけるようにして、真っ青な顔のトマスが上着を取り、びしょ濡れの妻をくるんで抱きあげた。
「ヴァレリー! 君が水に落ちたのか?」
 衝撃のあまり、彼には子供がまったく見えていないようだった。
 ヘレナはすばやく立ち上がると、真剣な表情でトマスを見すえた。
「とんでもない。 ヴァレリーは子供の命を助けたの。 すばらしかったわ! 私も来年の夏には、うちの子たちと一緒に泳ぎを覚えることにするわ」


 手回しよく医者が呼ばれていたので、ジャッキーはていねいに診察してもらえた。 トマスがどうしてもと言い張るため、ヴァレリーも診てもらったが、まったく何ともなく、むしろ運動したせいではつらつとしていた。
 そのときアーサーがどうしていたかというと、トミーが森の家から連れ帰って、厨房でおやつをもらってから裏庭に行き、他の子たちと陣取り合戦をして遊んでいた。 トミーに任せておけば大丈夫というヘレンの期待通りの働きだった。


 こうして騒ぎは無事に収まり、ヴァレリーは客たちにもてはやされた。 一時はどうなることかと思われた園遊会だが、一段と盛り上がって楽しいものになった。
 そして三日経ち、客たちが帰った後、一組だけ残っていたトマスとヴァレリーと子供たちが家に帰る時が来た。 トマスは相変わらずまめに家族の世話をやいていたが、表情にはどこかゆとりが出てきているようだった。
「お父様が木の家を作っていいって」
 アーサーが馬車の扉を持ってばたばたさせながら、トミーに話していた。
「秋にはできるから、見にこいよ」
「うん、うちのお父さんがいいって言ったらね」
 プリシラは花の図鑑を持って嬉しそうだ。
「ヘレナおばさまが町で買ってくださったのよ。 絵がいっぱいですごくきれい」
「ヴァレリーおばさまも私に買ってくれたわ。 『うさぎとやぎの育て方』」
 リリアンも負けずに言う。 二人の好みは違うが、どちらも生き物に優しいので気が合った。
 その傍らで、ヴァレリーとヘレナが名残おしげに向かい合っていた。
「じゃ予定日は一月末なのね。 絶対来たいけれど、トマスが出してくれないかも」
「あら、まだ過保護なの?」
「いいえ、泳いだおかげで見直してくれてね。 散歩や買い物は大いにしなさいって。 だけど乗馬はいけないといわれたわ。 揺れすぎて体によくないって」
 そこでヴァレリーの声が囁きに変わった。
「流産したら大変だからって」
「まあ!」
 思わず叫んでしまって、ヘレナはあわてて口を押さえた。 それから我慢できずに親友に抱きついた。
「おめでとう! こんなに嬉しいことはないわ! いつわかったの?」
「お医者様の診察で」
 ヴァレリーの顔がぽっと赤らんだ。
「六年半ぶりよ。 また全部新しくそろえなくちゃ」
「アンコール(もう一度)ね!」
「そう。 人生のアンコールだわ。 私たち二人とも」
 ヘレナにもたれかかって、ヴァレリーは幸福そうに微笑んだ。
「お祖父さんもこれで安心してくれるわ。 みんなあなたのおかげよ」
「どうして! あなたの努力が実ったのよ」
「いいえ、あなたのおかげ。 あなたは私たちの幸運の星なの」
 そう囁くと、ヴァレリーはトマスに手をとられて馬車に乗った。 ハリーが背後からヘレナを抱いて見送り、トミーとリリアンは子犬のように馬車を追って生垣まで追いかけた。
「またな〜」
「あ、パチンコ忘れた。 今度来るときまで取っといて」
「わかった」
 振り合う手が次第に小さくなる。 ヘレナは深い満足感と心地よい疲れに包まれて、夫の胸にゆったりと寄りかかった。








〔完〕









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