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プロローグ その1
イングランドの三月は、たいして心地いい季節ではない。 春の前触れでいくらか暖かくなるかと思えば、簡単に冬に戻って雪やみぞれが地面を覆う。
ここ、南部のサリー州でも、一八五八年のその夜は北のヨークシャーのように冷え込んでいて、小雨まじりの突風が、一人ひっそりと道を行く旅人の乗馬用コートの裾を巻き上げていた。
ビーバー帽を飛ばされまいとして、男の旅人は両腕をできるだけ体側につけ、馬上で前かがみになった。 道はどこまでもうねうねと続き、晴れた昼間ならのどかな田園風景が、たまに雲間から覗く月の光のせいで、妖魔の里のように不気味だった。
やがて、旅人が目標にしていたものが見えてきた。 烈風に吹き流されてそのまま固まったような、斜めにたなびく大きな樺の木だ。
男はフッと肩で息をつき、馬に合図を送って左に曲がった。
そこからは真っ直ぐな一本道だった。 五分も進むと、男と馬は城壁のような石塀に遮られて、足を止めた。
館の巨大な門は、しっかりと閉ざされている。 男は唇を引き結び、そこで馬を下りた。 そして、塀を巡って少し歩いた後、低くなった個所を見つけて、傍にあるトネリコの木に馬を結び、小声で囁きかけた。
「ここで待っていろ。 おとなしくしてるんだぞ」
彼はなかなか身軽だった。 音も立てずに塀の上端に飛びついて体を引っ張り上げ、庭に降り立つと、芝生の向こうに大きな影となっている館へ進んだ。
すでに夜の十時頃だ。 館の一階は闇に溶け、静まり返っていた。
だが、二階の一角に明かりが見えた。 打ち合わせ通りだ。 男は建物の飾りを足がかりに、その明かりめざしてバルコニーによじ登った。
フィービーが言ったように、バルコニーの掃き出し窓についた掛け金はゆるんでいた。 取っ手を外側から軽く揺すっただけで、簡単に外れた。
燭台に淡く照らされた室内には、誰もいなかった。 これも打ち合わせ通りだ。 疑われないように、フィービーは十時過ぎまで離れでピアノの練習をしていて、家族が寝てしまってから、そっと寝室に戻ってくる手はずになっていた。
その前に、小間使いか誰かが部屋に入ってきて男を見つけたら、計画は総崩れになる。 彼は胸を高鳴らせながら、どっしりとしたカーテンの後ろに隠れた。
間もなく、ドアが開いた。 そして、カーテンの陰から覗いた男の目に、白くなめらかな夜着の裾が飛び込んできた。
フィービーだ!
彼は夢中で飛び出した。
顔を突き合わせた男と女は、どちらも棒立ちになった。
彼が見たのは、栗色の髪を一本のお下げに結った女性だった。 彼女なりに美しいが、金髪ではない。
フィービーではない!
起きてはならない事態が起こった。 男がたじたじと後ずさりすると同時に、女の顔が恐怖で歪み、口が大きく開いた。
ここで叫ばれては破滅だ。 思わず体が反応した。 男は女に飛びついて、口をふさいだ。
ところが次の瞬間、たまぎるような悲鳴が、夜のしじまに響き渡った。
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