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表紙

アンコール!  89 重大な決意



 なんとなく立ったまま手紙を読む気がしなかったので、ヘレナは支配人室の隣にある小さな応接室に入り込み、椅子に腰かけて便箋を開いた。
 書かれている字は、宛名と同じで大きくて汚く、読みにくかった。 だが、書き出しのすぐ後にある名前が目に飛び込んできて、ヘレナは息を呑んだ。
 ギルフォード!
 それは、ヘレナの本当の苗字だった。
 ヘレナは手紙を強く掴み、目に近づけて判読しはじめた。
「クソ女め、俺から逃げて喜ぶなんて、どこまでバカなんだ! 俺はおまえを守ってやろうとしてるんだぞ。
 おまえは狙われてるんだ。 ギルフォードという名家の面汚しだからだ。 見つかったら闇に葬られるってのに、よりにもよって目立つ女優なんかになりやがって。 いいか、命が危ないんだぞ!
 おれが間に入って、うまくまとめてやった。 おまえを女房にして、ちゃんとした貴族社会に戻してやれば、それなりの持参金を払ってくれるそうだ。 いい話だろう?
 わかったら、とっとと帰って来い。 『人魚と岩』のバーテンにおれの名を言えば、すぐ迎えに行く。
J.A 」


 かすかな声で読み終わった後、ヘレナは手紙を握りつぶして目を閉じた。
 恐怖で体がカッと熱くなり、首筋に嫌な汗がにじんできた。 だが頭は氷のように冷え、様々な考えが寄り集まって、一つの結論にたどりついた。
 J.A……ジョナス・アレンバーグの頭文字だ。 やはりあの男には下心があった。 口止め料の持参金がほしいばかりに、ヘレナを妻にしようと追い回していたのだ。
 ──まんまと結婚できたら、その金が手に入ったとたんに、もう用済みの私を始末するつもりだったにちがいない。 どっちにしても闇に葬られる運命だったんだ──
 そう思いつくと、細かい震えが止まらなくなった。 やはり必死でハリーのところに逃げ込んだのは、正解だった。


 しかし、そう気づいたとたん、別の恐怖が襲ってきた。 ジョナスはきっと、ヘレナの芸名と逃げた先を、ギルフォード本家に知らせたはずだ。 そうだとすれば彼らは、今度は別の手段で、彼女を消そうとするだろう。
 もうハリーのところにはいられない。 あの人まで今まで以上の危険に巻き込んでしまう!


 くしゃくしゃに丸めた手紙を、うっかり落とさないように手提げに押し込むと、ヘレナはゆっくり立ち上がった。 指が自動的に、柔らかい絹の手提げの底を探る。 硬くどっしりした手触りが、いつもの安心感をもたらしてくれた。 辛い目に遭ったとき、いつもそうするおまじないだった。
 いよいよ、これを手放す時が来た──ヘレナは最後の手段を取る覚悟を決めた。


 約一時間後、ハリーがヴァレリーを送り届けて、再び馬車で劇場へ迎えに来たとき、ヘレナの姿はどこにもなかった。







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