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アンコール!  88 事の裏には



 ヘレナを劇場の裏口で降ろすと、ハリーはひとまずヴァレリーを仮住まいに送り届けることにした。
「すぐ迎えに戻ってくるよ。 支配人に挨拶した後、劇団の友達にも会いたいだろう?」
「そうね、いろいろと不義理をしちゃったから」
「ゆっくりしてなさい。 だけど、アレンバーグがいなくなったからって、安心して外を歩きまわっちゃ駄目だよ。 まだ手下がいるのを忘れないで」
「はい」
 ヴァレリーは傍で、目を丸くしながら二人を交互に見つめていた。 前とは違う親密な雰囲気を、短いやりとりの中に感じ取ったのだろう。 しかし、考え深いヴァレリーは、口に出しては何も言わなかった。


 ヘレナが楽屋口からそっと入っていくと、まず呼び出し係のジムに見つかった。
 彼はただでさえ大きな目玉をひんむいて、わざとらしい呻き声を立てた。
「うおぅ、これはまた、上等な服着ちゃって! やっぱり噂通りなんだな。 ステキなパトロンを見つけたってわけだ」
 ヘレナの胸が、ちくっと痛んだ。 これまで誰にも頼らずに、自分の稼ぎで何とか生きてきた。 だが今では、内心軽蔑していた『金持ちの遊び相手』になってしまっている。 危険な男から逃れるために仕方がなかったという事情があったにせよ、そういう目で見られると、やはり落ち込んだ。
 それでもヘレナは心を励まして、にっこり微笑んでみせた。
「まあ、いろんなことがあってね。 私の後釜は、誰になった?」
「ああ、スージーの役はダニエラに行ったよ。 でも、あんたに比べると華がなくてさ。 コーラ役のバブスは喜んでたけどね、自分のほうが目立つから」
 そう言うと、ジムは片目をつぶってみせた。 少なくとも、彼はヘレナが舞台をすっぽかしたからといって嫌ってはいないようだった。


 ジムと別れて、ヘレナは通路を曲がり、支配人室へ向かった。
 大きな口ひげを蓄えたマイケル・トーリン支配人は、ノックして入ってきた美女を、デスクの向こうから上目遣いに見すえた。
「おや、放蕩息子ならぬ放蕩娘のお帰りか」
「そうじゃないんです」
 ヘレナは緊張を隠して、穏やかに答えた。
「ジョナス・アレンバーグという人をご存知ですか? ブラックモア男爵の息子なんですけど」
 トーリンは興味なさげに、目の前の書類を掻き混ぜた。
「聞いたことはある。 下町の芝居小屋で暴れて、座席を取り外してぶん投げたという話だ。 それで?」
「その人が、無理やり私と結婚しようとしたんです」
 さすがにトーリンの視線が上がって、ヘレナを見つめた。
「さらおうとでもしたのか?」
「ええ」
 ヘレナははっきりと答えた。
「だから逃げるしかなくて。 彼が借金取りに殺されたと聞いて、やっと出てこられました」
 するとトーリンは目を細めた。
「まさか、つきまとわれるのが面倒になって、自分で始末したわけじゃないな?」
 こういう冗談はいただけない。 ヘレナは思わず元の上司を睨んだ。
「六フィートある男ですよ。 私にできるわけないでしょう」
 トーリンは笑って手を振り、ふざけただけだよ、と言い訳した。
「それで? 舞台に戻りたいわけじゃないよな。 もう代役を立てたし。 まあ、君がどうしてもっていうんなら、考えないことも……」
「いえ、今日はお詫びと事情の説明に来ただけです。 わかっていただけたようなので、これで」
 そう言って、踵〔きびす〕を返して部屋を出ようとしたとき、背後で立ち上がる音がした。
「待ってくれ。 これを預かっていたんだ。 忘れるところだった」
 いぶかしげに振り返ったヘレナに歩み寄ると、トーリンはいくらか薄汚れている手紙を渡した。


 ドアを閉めてから、ヘレナは封書を眺めた。 ヘレナ・コール嬢へ、という宛名だけが乱暴に書きなぐられていて、差出人の名前はない。 封を切って中身を取り出したところで、妙な胸騒ぎがした。





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