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アンコール!  90 真夜中の客



 その夜は新月から二日目で、雲一つない空にかかる月は糸のように細かった。
 表通りにはガス灯がぼんやりした光を投げかけていたが、一歩横道に入ると、ほぼ真っ暗だ。 そんな中を、深い森を影のように動き回る狼のごとく、ヘレナは簡単に通り抜けて、来慣れた屋敷の裏口に立った。
 そこはサイラス・ダーモットの家だった。 どさくさにまぎれて、まだ鍵を返していない。 だからヘレナは苦もなく、通用口から真っ暗な庭に入りこんだ。
 だが、家には忍び込めなかった。 引きずるように追ってくる足音を耳にして、ヘレナはすぐ足を止め、手提げから護身用拳銃を素早く取り出した。
 足音は、家の角を曲がってきて止まった。 そして低い男の声が、脅すように響いた。
「あんただったか」
 この屋敷の、見えない番人の一人らしい。 そういう男が数人いるのを、ヘレナは何度も通っているうちに気づいていた。
 男は立ったまま、ぶっきらぼうに尋ねた。
「もう仕事は辞めたんだろう?」
「ええ」
 幸い、声は震えずにすんだ。 ヘレナは拳銃を手提げに戻したが、用心のため握ったままで、男に話しかけた。
「でも今は、ダーモットさんに大事な相談があるの。 命にかかわることなのよ。 だからお願い、会わせてちょうだい」
 男は岩のように動かなかった。 ほぼ真っ暗闇なのに、ヘレナをよく見分けられるらしい。 ヘレナのほうは、男の容姿がほとんどわからず、ただがっしりした影に見えた。
「どんな用件だ? まず俺に言うんだな」
「あなたを信用して?」
 つい言い方が皮肉になった。 すると男は腕組みして、威嚇するように脚を広げて立ちはだかった。
「他に道はないぞ。 すぐ鍵を返して出て行くか、俺に話して取り次がせるかだ」
「わかったわ」
 ヘレナは力なく答えた。 身も心も疲れていて、一分でも早くサイラスに会いたかった。


 劇場を後にしてから今まで、どんなに心細かったか。 辻馬車に乗って料理店に行き、まず腹ごしらえをしたものの、女一人では人目が気になって、すぐ出てきてしまった。
 服装もいけなかった。 女優のときはそれなりに安物で、町を一人で歩いても目立たずにすんだ。 しかし今日の買い物には上等な外出着で来たから、お供なしで歩いていると不自然なのだ。
 だから途中で古着屋を見つけて、全身が隠れる擦り切れたマントを買い、デイドレスを隠した。
 時間つぶしに見世物小屋に入り、しばらく道化芝居を見た後、帰宅する客たちにまぎれて戸外に出た。 そのとき近くのテムズ川から、おなじみの湿気をふくんだ食べ物かすや動物の死体、それに排泄物の混じった、すえた臭いが吹きつけてきた。
 とたんにヘレナは、川に向かって小走りになった。 まるでよどんだ水に引き寄せられるように。
 だが、ヘレナを呼び寄せたのは水ではなかった。 二年半前の強烈な体験と、初めて男を頼った思い出の力だった。
 あの男はあんなに汚く、醜く、しかも、いらいらしていてそっけなかったのに、父にもできなかったことをした。 彼女を守ってくれたのだ。 それも、たった一人で。
 彼はヘレナの気持ちを知らない。 それどころか、自分が助けた小娘のことなんか、とっくに忘れているだろう。
 それでも、ヘレナは忘れなかった。 父が死んで、寂しい葬式を出した直後、矢が弦から放たれるように夢中でテムズの船着場に駆けつけ、ハンクを探した。 しかし、呼び名しか知らない娘に、船頭たちの口は固く、異口同音にそんな男は知らないと言うばかりだった。
 当然のことだった。 ハンクは捕まれば首吊りになる密売人なのだから。






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