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アンコール!  91 相談に来て



 頭を吹き荒れる記憶の数々を、ヘレナはやっとの思いで振り払い、目の前の影に注意を集中した。
「私は追われてるの。 命を狙われるかもしれない」
「誰にだい?」
 男はぶっきらぼうに、しかし同情の気配も感じられる口調で尋ねた。
 ヘレナは溜息と共に答えた。
「親戚よ。 威張り屋で身勝手な」
「なるほどな」
 男の声は、さらに和らいだ。
「じゃ、ついて来なさい」


 場所はわかっているだろうからと、中に入ったヘレナは廊下に置いていかれた。 男は垂れた帽子も脱がずに、片脚をぎこちなく引きずって去っていった。
 それでヘレナはいつものように、事務室に入っていった。 部屋は相変わらずちり一つなく整理され、暖炉には小さく火が点っていた。
 少し前まで、ここはヘレナの日常だった。 決まった仕事があったし、下宿に戻れば親友もいた。 まったく変わっていない室内を見渡すと、我にもなく涙がにじみそうになったので、ヘレナは急いでまばたきして机に近づき、椅子に腰を下ろした。
 身をかがめて、筋肉が凝ったふくらはぎを揉んでいる最中に、ドアが開いた。 ヘレナは飛び立つように立ち上がった。 そして、思わず首をかしげた。
 入ってきたのは、サイラスだった。 本人がすぐ来てくれたので嬉しいのは当然だが、彼があまりにも面変わりしていたため、ヘレナは出鼻をくじかれて、反射的に目を真ん丸にした。
「サイラスさん、こんばんは。 どうしたの、その素敵な格好?」
 珍しくドアノブに手をかけたまま、サイラスは半端な笑みを浮かべた。 彼は明らかに照れていた。
「しゃれ過ぎか? 今はこんな服が流行だと聞いたんで」
 流行! サイラス・ダーモットが浮ついた世間の流行を気にするなんて。 信じられない思いで、ヘレナは目をぱちくりさせた。
「似合ってるわ。 だから余計に驚いた。 もしかして、結婚するの?」
「え?」
 2人は顔を見合わせ、同時に吹き出した。
「いやはや、結婚か! 確かに式はもうじきだ。 でもわしのじゃない。 孫娘のだ」
「孫って……」
 ヘレナは絶句した。 みるみる顔が明るくなった。
「もしかして、ヴァレリーのこと?」
 サイラスは真顔になり、ヘレナの傍へ来ると、驚いたことに椅子を引いて、レディとしてそっと座らせた。
「君には深く感謝しとる。 引き取って同じ下宿に住まわせてくれたから、あの子はこのぶっそうなロンドンで無事に過ごせた。 それにしても、本屋のバクスターに推薦したとき、まさかその娘がわしの孫だなどと、想像もしていなかったよ」
 ヘレナは手を伸ばしてサイラスのがっしりした手に重ねた。
「よかったわ。 サイラスさんがヴァレリーのお祖母さんを知ってるようだったので、そうだといいと思ってたの」
「ありがとう」
 少し見ないうちに、サイラスはえらく素直になっていた。 しかも、やつれて厳しかった顔までいくらか肉付きがよくなって表情が優しく変わり、十歳は若返って見えた。
 ヘレナの手を握り返した後、サイラスは真剣な目つきになった。
「君のことを心配していたんだぞ。 手紙を受け取ってからずっと」
「すみません」
 ヘレナはしおらしく言い、目を伏せた。 消えていた間のことは、あまり説明したくなかった。
「不良男に結婚を迫られていたの。 その人は他にも敵が多くて、けっきょくテムズ川に沈められてしまったんだけど、今度は親戚がね」
「身内が敵か」
と、サイラスは唸った。
「頼りにすべき者が、情けない真似をするんだな」
「ええ」
 ヘレナは決心が変わらないうちに手提げを持ち上げて机に置いた。
「それで、相談に来たの。 貴方はロンドンで一番の質屋さんだわ。 だから、これの値打ちがどれぐらいか、正確に教えてもらえると思って」
 そう説明して、手提げの底からすりきれたビロードの布を取り出して結び目ををほどくと、中からクルミほどもある巨大な宝石が姿を見せた。






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