表紙

面影 80


 袴をビシッと折って座布団に座ると、進藤は涼しい眼でゆき子を見やった。
「ゆき子という名にしちゅうそうだな」
「はい」
「呼びやすうていい名だ。 他は? 何か出て来ゆうか?」
「いいえ……」
 期待に応えられないのが申し訳なく、ゆき子は唇を噛みしめた。
「まあ、無理せず、気い楽にな。 ここの言葉じゃと、気ぶっせいはいけねえ、元気出しなってことよ」
 急に威勢のいい江戸っ子訛りが飛び出したので、ゆき子は驚いて目を丸くした。 すると進藤は少年のように声を立てて笑った。
「土佐ことばはようわからん言われてな、いろいろ聞きゆう、ではなく、聞いておるんだ」
 面白い人――ゆき子の顔も、少しだけほころんだ。
 小さな笑顔を見てほっとしたように、進藤は立ち上がった。
「ゆっくり休め。 わしも眠たい」

 足音が消えた後も、しばらくゆき子は緊張が解けなかった。 進藤の親切は親切として、やはりそこは若い男と女だ。 再会すれば何かが起きるかもしれないと覚悟はしていた。
 しかし、進藤の眼差しは澄んでいた。 態度も明るく、まるで男の後輩に接するように気さくだった。
 まだはっきりとは決められないが、よい人柄のお方らしい――ゆき子は、心を洗われるような心地よさを感じ、思わず手を合わせて、彼の去った襖に頭を下げていた。


 数日が平和に過ぎた。 進藤はゆき子の食事を離れに運ばせ、人目につかないようにしていた。 独身の警備隊長としては当然の用心だ。 その間にゆき子はお次やお明と次第に打ち解け、界隈の様子や、近所の人の噂など、少しずつ情報を頭に入れていった。
 ゆき子は二人に、記憶がないことを正直に話した。
「小銃で撃たれてねえ、頭の中のものが何もかも吹き飛んでしまった」
「まあ、お気の毒に」
 お次は袂を口に当てて怖がった。
「江戸の町も、もう少しで火の海になるところだったんですよ。 勝海舟さまが話し合いで都を守ってくださって……あ、もう都じゃないんですね。 帝がいらっしゃる京都に戻ったんでした」
 お次の口調には、残念さがにじみ出ていた。



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