表紙

面影 78


 ゆき子には、渡り廊下でつながった離れの一室が用意されていた。 案内したのは、お明に呼ばれて急いで奥から出てきたお次という年かさの女中で、穏やかな疲れた表情をしていた。
「ようこそおいでなさいまし。 旦那様から言い付かって、掃除と身の回りのお支度だけは済ませておきました。 お入り用の物はすぐ買ってまいります。 ご遠慮なくおっしゃってくださいまし」
「お手数でした」
 ゆき子はどことなく威厳を持って言い、そんな自分に驚いた。 人を使うのに慣れているようだ。
 お次もそう感じたらしい。 物腰がいっそう恭しくなった。
「それではこちらへ。 ご案内いたします」

 通されたのは、床の間と丸窓のある落ち着いた八畳間だった。 お明が風呂を立てる間、ゆき子は金包みを手元に置き、お次が箪笥を開けて説明するのに耳を傾けた。
「長旅をしてこられるから荷物は少ない、着物など一通りそろえておくようにと言われまして、とりあえずこれだけ買い揃えました。 こちらですが、いかがでしょう?」
 せっせと手を動かして、やや地味だが上等な着物を見せてくれたので、ゆき子は感謝の微笑みを返した。
「上品な柄ですね。 ありがとう」
 ほっとして、ゆき子の人柄に親しみを感じたらしく、お次はうるさくない程度にしゃべりかけてきた。
「会津にはきれいなお山があるそうですね。 こちらには山はありませんが、代わりに潮くさい海が広がっておりますよ。 春先には潮干狩りができます。 お嬢様、潮干狩りってご存じですか?」
 ゆき子は少し考えた。
「いえ、たぶん……」
 彼女が記憶を失っていることを、お次は知らないらしい。 すぐ楽しげに話を続けた。
「そうですか。 なに、たあいもないお遊びなんですけどね、大潮の日に、あ、大潮ってのは海が引いて浜が遠くまで見えることなんですが、その浜に貝を掘りに行くんですよ。 あさりだの、はまぐりだのって」
 快い音楽のように、お次の言葉は流れ続ける。 ゆき子は軽くうなずきながら、次第に庭の景色をぼんやり眺めて考えにふけった。
――私は誰で、ここに来て何をしようとしているんだろう。 確かに会津は故里のようなのに、とどまりたくなかった。 一刻も早くよそへ行きたいという、あの追われるような焦りと苦々しさは、どこから生まれてきたものなのだろう――
 私は誰かを失った。 ゆき子は頭の奥でそのことを自覚していたが、認めるのは死んでも嫌だった。



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