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戻れない橋  87 愛の叶う日


 スタジオを出たところで、一同は三つのカップルに分かれた。
 亜矢の両親はそのまま家に帰る。 望月と千早は買物をしていくと言った。
 新しく誕生した五十嵐夫妻は、このまま新婚旅行に出かけることはできなかった。 なにしろ仕事が増える一方なのだ。 嬉しいことだ、と亜矢は思っていたが、五十嵐は申し訳ないと恐縮していて、盛んに約束を繰り返した。
「ようやくしっかりした事務の人を雇えたし、もうじき望月の後輩で実績のある画家が入ってくる予定なんだ。 そうなれば少しは休みが取れるようになるから、亜矢の行きたいところに行こう」
「行きたいところ……」
 そういわれるたびに、亜矢は迷う。 いくらでも選べるとなると、なかなか決められないのだ。 ぜいたくな悩みだと、また嬉しくなる亜矢だった。
 ともかく、新婚早々にマンションへ直帰では亜矢の負担が大きいと思った五十嵐は、せめてもの心遣いで、大宮の一流ホテルにスイートルームを予約した。 だから二人は彼の車で、そのホテルに向かった。


 夢のあるインテリアだった。 家具はアンティーク風で暖かい雰囲気。 しかし設備は最新で、使い心地は未来的だ。
「ここ、楽しいねぇ」
 亜矢があちこち使って面白がっていると、背後から腕が回って抱きしめられた。 備え付けのボディシャンプーの香りが強くなって、ふわっと体を包んだ。
 そのまま無言で、唇が合った。 亜矢の頭が、一瞬しびれた。 自然に力が抜けたところを、軽々と抱き上げられた。
「うわっ」
 思わず出た小さな叫びは、またキスでふさがれた。 亜矢は反射的に五十嵐の首に抱きつき、子供のように揺られていった。


 翌朝、二人は寝坊した。
 亜矢が目覚めると、上掛けもろとも五十嵐の体が背中をすっぽり覆っていた。 普通ならきゅうくつなはずだが、寝過ごすほど熟睡できたのは、その温かく大きい胸のおかげらしかった。
 彼を起こさないように、ゆっくり足を伸ばして体をずらしていると、手が上掛けから出てきて引き止めた。
「もうちょっと寝てなよ」
「うん、でもおなか空いた」
「じゃ、電話で注文しよう。 何食べたい?」
 変わらず行動的だ。 前と違うのは、そう言って亜矢に向けた目が、さらに親しみを増し、独占欲に近い輝きを帯びているところだった。
 亜矢もふわふわしていた。 寝起きなせいだけでなく、これで人生の新たな階段を上がった、好きな人と共に初めての夜を過ごすという最上の体験ができたという幸せ感のなせる業だった。


 ぎりぎりで時間のやりくりをして、丸二日間ホテルに泊まった。 二日目の昼間は車で足を伸ばして、上野の美術館を見に行った。
 詳しい展示説明書を買い、それを眺めながら広い館内を、手を繋いで回った。
 地味なハネムーンだと人は言うかもしれない。 だが好きなものを大好きな人とじっくり眺める楽しさは、何にも替え難かった。




 翌日からは、もう日常が待っていた。 披露宴の前日まで、新婚の二人は何事もなかったように働き、残業だけは次に回して、準備を終えた。
 そして当日、爽やかな笑顔とシックなスタイルで、続々とつめかける招待客を迎えた。 音大のカルテットの演奏つきで、食事会はなごやかに進み、イベントがお手の物のハーフムーン社員たちが力を入れて作った内緒のムーディーな『なれそめショートムービー』が上映されるなどのハプニングもあって、大いに盛り上がった。
 一番客が沸いたのは、最後に用意されていた二人の挨拶のときだった。
 そこでは、二人がいわゆるお色直しをしたのだが、別室に引っ込むのではなく、その場でやってのけたのだ。
 新郎側はわりと簡単にやった。 上着をさりげなく脱いで裏返しにしただけだが、肩に肩章のついた青い服は十九世紀の軍服のように華やかで、みんな目を見張った。
 それから新郎は、いつの間にか嵌めていた白い手袋の手を伸ばし、花嫁の手を取って上にあげ、優雅に一度くるりと回した。
 その瞬間、ワインカラーのワンピース姿だった花嫁が、パッと変わった。 一瞬の後、みんなの前に立っていたのは、淡いピンクの薄絹とチュールを重ねたドレスの、愛らしいプリンセスだった。
 おお、や、えぇ? という嘆声があちこちで響いた後、一斉に拍手が沸きあがった。 それぐらい見事な変身だった。
 この早変わりがあまりにも印象的だったため、その後二人が述べた感謝と誓いの言葉がやや尻つぼみになってしまったのはいたしかたない。
 ともかく、出席者を大いに楽しませて、二時間の短い披露宴は成功で幕を閉じた。


「すごい! あれ、どうやったの?」
 亜矢の幼なじみで、小学校から中学まで一緒だった北川摩湖〔きたがわ まこ〕が、後ですぐ寄って来て、目を丸くして尋ねた。
 それで、亜矢はスカートの裾を少しだけまくって、仕掛けを見せた。
「ここを上で留めておいて、回るときに外れるようにしてあるの」
 摩湖はワイン色とピンクが裏表になった仕掛け服を、何度も裏返して感心した。
「わかっても、やっぱり凄い。 ねえ、亜矢かダンナが考えたの?」
「ちがう。 ネットでミュージカル見たら、やってたの。 『シンデレラ』」
「へえ」
「ヨーロッパにはシンデレラ人形っていうのがあって、ボロを着てる人形を逆さにすると、ドレス姿になるんだって。 それがヒントになったらしいよ」
「うん? てことは、人形の頭がふたつあるわけ? なんかやばいー」
「人間じゃそれはできないから、服だけ裏返すの」
「なるほどね〜。 いや、効いたよ〜。 おもしろかった!」
 摩湖ははしゃいでいた。 傍でにこにこしている新郎が、昔に歩道橋から落ちた当の本人だとは、もちろん夢にも気づいていなかった。





 十一月の半ばに、千早が男の子を産んだ。 子供と僕のために体力をつけよう、と、望月が休日になるとせっせと連れ出して、散歩、サイクリング、はては低い山歩きにまで誘ったかいがあって、少し時間はかかったものの安産で、促進剤は使わずにすんだ。
 子供も健康そのものだった。 結局五十嵐と亜矢の披露宴に姿を見せなかった父親だが、やはり知らせなければと、千早は短い手紙を書き送った。
 すると驚くことに、返事が来た。 その内容は、望月夫妻を驚かせた。
 五十嵐正太郎院長は、春先に体調不良になり、検査したところ胃潰瘍で、手術したというのだ。
『……悠吾から思いがけず招待状が届いたとき、実は行く準備をした。 その矢先、喀血して緊急手術になったが、なにしろわたしは病院長なので、表向き発表できなかった。 医者の不養生の典型では、病院の評判にかかわるからね。 悪いが、おまえから悠吾たちに謝っておいてくれ。
 だが、仲直りの機会を逃したのは残念だった。 体が悪くなると、気も弱くなるものだ。 子供の誕生を知らせてくれて、ありがとう。 こういう時期に孫に恵まれたというのは、励みになる。 先の世代に望みを託して、わたしもまた頑張ろうという気になったよ』
 千早は夫に手紙を渡して、苦笑を浮かべた。
「お父様は、孫という新しい希望の星を見つけたみたいよ」
「できれば医者にしたいって?」
 望月は元気にばたばた手足を動かしている息子の芳樹〔よしき〕をあやしながら、低く笑った。
「まあ、この子が自分で選ぶ道を応援してやろう。 画家でも医者でも、グライダー乗りでも勤め人でもね」




 翌年の四月、学校の新学期が始まる時期、五十嵐夫妻と望月は、ある墓地を訪ねた。 千早は、そこへ行くと考えただけで過呼吸になりかけたので、同行できなかった。
 身元不明で亡くなった人たちの共同墓がある墓地だった。 亜矢はその墓の前に白百合の花束を捧げ、頭を垂れて祈った。
 人を芯から愛することを知らず、愛されることもなかった波谷明敏が、あの世で平穏を取り戻せますように。
 そして生まれ変わるなら、もっと実のある幸せな人生を送れますように、と。



【完】











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