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表紙

戻れない橋  1 春の帰路で


「亜矢〔あや〕って、いい名前だよね〜」
 学校帰りの舗道を並んで歩きながら、北川摩湖〔きたがわ まこ〕がまた蒸し返した。
「私なんか、コがついてるんだよ。 今時、コが」
「子供の子って字じゃないから。 みずうみって字だから、いいじゃない?」
「よくない。 書くのめんどいし」
 毎日のようにこの繰り返しで、よく飽きない。 だが、帰り道の定番になっているから、古藤亜矢〔こどう あや〕のほうもいつも通り慰めた。 こうなると、同志愛を確かめる合言葉みたいなものだ。


 四月の終わり、花曇りの午後だった。 もうソメイヨシノはとっくに散り、八重桜も満開を過ぎた。 ゆるやかな坂になっている通学路を、肩をぶつけるようにして上がっていくと、右手に駐車場が、左手に石塀が見えてきた。
 わりと広い二車線の道で、両側に舗道がちゃんとついている幹線道路だが、坂の上にある歩道橋を過ぎたところには、大きな住宅が二つも並んでいる。 坂道の途中と、上がりきって少し行ったところには、小奇麗な商店がちゃんと並んでいるのに、この一角にデンとお屋敷があるせいで、客足がとぎれていた。
「ここも店にしちゃえばいいのにね。 夜なんか、この前だけ暗くて、なんか怖いよ」
「しないしない。 どっかの社長さんの家だもの。 金持ちで、車三台持ってるって」
「そんなに?」
「うん、社長と奥さんと息子、一台ずつ」
「なんで知ってるの?」
「彰典〔あきのり〕が言ってた。 仲間とこっそり忍び込んだんだって」
「えっ?」
 亜矢はびっくりした。
「お兄さん捕まらなかった? 金持ちって、警備きびしいんだよ」
「そのときは大丈夫だったらしい。 ケータイであちこち写真撮って、見せてくれた。 自慢で」
「なんの?」
「肝だめし」
「バカだねぇ〜」
「そう、モノホンのバカ」
 一才半年上の摩湖の兄を、二人でけなして楽しんでいると、なんだか場違いなものが、向こうからやってきた。


 それは、短い髪を見事な白金色に染めた若い男だった。 パツキンの上に細いヘッドホンをはめ、コードを右手にからませて、ふんふん低い声でハミングしている。 まっすぐ歩けず、左右にだらしなく歩幅が広がっていた。
 摩湖が体を寄せて、声を低くした。
「鼻ピーふたつしてる」
 亜矢もまばたきしながら、さりげなく観察した。 ピアスは鼻だけでなく、耳にも口元にも光っていた。
「やばげ?」
「うん、ちょっと」
 金髪ピアスだけなら驚かないが、このよろめき男には、昼間からラリッてるんじゃないかという危ない雰囲気が、濃厚にただよっていた。
 これは、そっとしておいたほうがいい。 亜矢は向かい側の歩道に目を走らせた。 渡ってよけたほうがいいんじゃないかと思ったのだが、若い男は脚が長く、のそのそしているわりには早く近づいてきたし、車の流れが途切れないので無理だった。
 亜矢と摩湖は黙りこみ、石になったふりをして、そっと男とすれちがおうとした。 そのとき小さな鳴き声が、思いがけない近さで耳に飛び込んできた。


 反射的に亜矢が目を向けた車道との段差を、子猫がさまよっていた。 かわいいとは言い難い三角の顔で、毛色は平凡なキジトラといわれる灰色っぽい縞だった。 いつもの亜矢なら、動物好きだからすぐ気づいたはずだ。 前の男に気を取られてさえいなかったら……
 子猫は目やにで半分ふさがった眼をしぱしぱさせながら、ぎこちなく半回転すると、いきなり車道へ歩み出した。 亜矢は震え上がった。
「きゃっ、だめ!」
 摩湖を蹴飛ばしそうな勢いで飛び出た、その目の前で、大きな手がパッと小さな獣をすくい取った。
 その直後、バイクが騒音を立てて、子猫のいた路面を通り過ぎていった。


 なんともいえない沈黙の中、ラリッているっぽい男と、二人の中学生は、立ち尽くして見詰め合った。
 あせった上、急に身を屈めたせいで血が上った亜矢は、もやった頭のまま、いきなり両手を突き出した。
 すると若い男も無言のまま、その両手の上に汚れた猫をポンと下ろした。
 そこで亜矢は、自分が息切れした声で嬉しそうに言っているのを聞いた。
「ありがとう!」








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