表紙目次文頭前頁次頁
表紙

戻れない橋  2 自己破滅型


 男の眼が、一瞬きらめいた。
 妙な受け答えを面白がっているのか、それとも人見知りしない亜矢に親しみを感じたのか、そこはよくわからない。
 ともかく彼は、また体をよろめかせて、ゆらりと二人の傍を通り過ぎ、ヘッドホンのコードを長い指に巻きながら歩いていった。


 亜矢は立ち止まったまま、二秒ほど彼の後姿を眺めていた。 短いジャンパーの裾から、使いこまれて白っぽくなったジーンズの腰部分が見える。 ぴちぴちなので、だらしない歩き方をしていても、下半身が引き締まっているのがよくわかった。
 摩湖〔まこ〕に袖口を引っ張られて、亜矢は我に返った。 摩湖は眉を寄せ、薄汚い子猫と亜矢の顔を交互に見た。
「これ、どうすんの?」
「飼う」
「弱ってるよ。 すぐ死んじゃいそう」
「直す。 きっと元気になるよ」
 あーあ、と溜息をついたものの、亜矢一家の動物好きを知っている摩湖は、それ以上反対しなかった。
「じゃ、早く帰ろう。 この子にミルクかなんかやらないと」
 亜矢はうなずいたが、なんとなく後ろ髪を引かれる感じで、もう一度だけ振り返った。
 そのとき、通行人の声がした。
「ちょっとお兄さん、あぶないよ。 やめなさいって」
 その声に導かれるように視線を上に動かして、亜矢たちは凍りついた。
 さっきのパツキンさんが、歩道橋の上にいた。 すらっとした体を揺すりながら、階段の横の柵に登り、今しも危なっかしく勢いをつけて、立ち上がろうとしていた。
 注意している親切な中年女性は、階段のふもとにいた。 歩道橋にはパツキンさんしかいない。 しかもヘッドホンをしているから、呼びかけられても聞こえないらしかった。
 支えも何もない橋げたに、彼がふらっと立ち上がったのを見て、亜矢はかすれた呻き声を上げた。 今駆け出しても、彼女の位置からでは間に合わない。 彼のところに飛んでいきたかった。 羽があれば、どんなによかったか。
 パツキンさんは、二度ぐらっとしてから、両足を縦に開いて、狭い柵の上にまっすぐ立った。 そして、自慢そうに笑った。
 完全にラリッてる。 彼の様子に気づいた若い二人連れの男が、急いで階段に走り、三段飛ばしで上がっていった。
 だが、それがよかったか悪かったか。 二人に気づいたパツキンさんは、後ずさりした。 逃げようとしたために、重心が取れなくなった。 両腕がむなしく空を切り、彼は悲鳴とともに落ちていった。


 そんな……!
 あわただしく呼び交わす声が響き、あちこちから通りすがりや商店の人々が飛び出してきて、歩道橋の向こうに走っていった。
 そんな中、亜矢は麻痺したように立ちすくんでいた。 摩湖のほうは、青くなりながらも好奇心に勝てなかったらしく、彼らの後ろからためらいがちについていった。
 子猫が体をよじらせて、かすかに鳴いた。 亜矢は自動的に猫の頭を撫でたが、意識は歩道橋の向こうに集中していた。
 やがてサイレンの音が近づいてきて、救急車が道路脇に停車した。 人垣の奥から誰か出てきて、救急隊員を案内していくのが見えた。
 すぐに車の背後からストレッチャーが降ろされた。 そして間もなく、彼を乗せて現われた。 首まで布をかけられて、微動もしない。 金色の頭に、雲間から差し込んだ午後の日が当たって、弱々しく輝いた。


 再び大きなサイレンを鳴らして救急車が去った後、摩湖が頬を紅潮させて戻ってきた。
「たまげたね〜、急にあんなことするなんて。 やっぱどっか壊れちゃってたんだね」
「助かるって?」
 ようやく問いをしぼり出した亜矢の耳に、夢も希望もない返事が聞こえた。
「ううん。 もう死んでるみたいだって」
 ……。
 亜矢は貧血を起こしそうになった。 その横で、摩湖は聞いてもいない情報を、興奮の収まらない口調で次々に披露していた。
「あそこの大きな家のとこに落ちちゃって、最初どこ行ったかわからなくて、みんな探しまわってた。 やっと生垣の角になった裏で見つけたんだけど、もう手遅れで」


 ツキがない。
 そう亜矢は、ぼんやり考えた。 猫の命を救ったのに、神様はそんな彼を救ってはくれなかった。








表紙 目次前頁次頁

Copyright © jiris.All Rights Reserved
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送