表紙

月とアルルカン 39


 一ノ瀬が本を置いて立ち上がるのと同時に、瑠名はベンチにたどり着いた。
 軽く息を切らせながら、瑠名は大きな若者を見上げた。
「ごめんなさい。 三十分も待たせちゃって」
「いいんだ」
 一ノ瀬の声は低かった。
「角井〔かどい〕と会ってたんだろ? さっき暗い顔して、前を通ってった」

 角井という苗字が聞き慣れなくて、瑠名は一瞬首をかしげてしまった。
 でも、すぐに気付いた。 ショータッチの名前だった。
 じゃ、ショータッチが駅へ向かった後、しばらく瑠名が現れなかったのを、一ノ瀬はどう感じているだろう。 困って固まった瑠名の腕に、そっと一ノ瀬の手がかかった。
「坐って話さないか?」
「うん」

 二人はベンチに並んで腰かけた。 前の道を大勢の人々が通り過ぎていく。 適当にざわめく声や足音のおかげで、かえって二人だけの会話がしやすかった。
 文庫本をダッフルコートのポケットに入れると、一ノ瀬は声を落としたまま、語り出した。
「俺、ここで君を見てた。 もうわかってるよね?」
 返事を言葉に変えられず、瑠名は首をこっくりさせた。
「そのうち我慢できなくなって、大学まで後ついていって、誰だか訊いた。 でもそこまでで止まってたんだ。 角井の口から君の名前が出るまで。
 偶然とは思えなかった。 なんか縁がつながってる気がして、でも俺の勝手な思い込みかなとも思って、ずっと混乱してた」
「私は、諒さんが芦沢会に来てくれたの、バイトだと思い込んでた」
 ようやく、瑠名は声を出せた。
「ショータッチったら、私からも紹介料七万取ったの」
 一ノ瀬は唖然となった。
「なんだって?」
「二重取り。 チャンスを捕まえるのが上手いのよ。 でもね、白状したんだから責めないであげて」
「ひっでぇな、あいつ」
 なかなか気持ちが収まらない様子で、一ノ瀬は荒い鼻息を立てた。
「両方で十二万か! それだけバイトで稼ぐのにどんなに時間かかるか、わかってんのか」
 握りしめた拳が、ゆっくり膝の上でほどけた。 長い指を熊手のような形に曲げたまま、一ノ瀬はもう一つ息をついてから、静かに訊いた。
「美並ちゃん、知ってるの?」
 瑠名は大きく頭を振った。
「話さないでくれって、ショータッチ必死で頼んでた」
「口止めか……」
 唇をギュッと結んだ後、一ノ瀬は苦しさを吐き出すように、ポンと声を発した。
「俺も口止めされてるんだ。 でも話す。 君に誤解されたままで別れたくない」
 声が暗く濁った。
「金がからんでるんだ。 うちの工場で、請求書まとめられちゃって、一括で支払わないと材料入れないって言われた。
 そこへ資金提供の話があって、親父が受け取っちゃったんだ。 俺に相談なしに。 不渡り出したら黒字倒産だから、選んでる場合じゃなかったんだろうけど」
 瑠名は、内心の辛さを表している一ノ瀬の曲がった指を、じっと見つめていた。 灰色の霧のようなものが、ぼんやりと胸に湧き出して、次第に不愉快な形を形作りはじめた。




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イラスト:アンの小箱
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