表紙

月とアルルカン 31


 文子伯母と息子・娘達が賑やかに見送る中、瑠名と一ノ瀬は三時半少し前に芦沢邸を後にした。
 もう手を繋ぐのはデフォになっていた。 風のない穏やかな陽射しの下で、二人はできるだけのんびりと歩いた。 駅に着くのが遅ければ遅いほどよかった。
「もう来年からはバカなことしないだろうな」
 一ノ瀬が愉快そうに言った。 その言葉に主語はなかったが、二人とも誰を指しているのかよくわかっていた。
 来年……その時また、この人と来られたらどんなにいいだろう。 瑠名は息を大きく吸い込み、握った手に力を込めた。
「ありがとう、一ノ瀬さん。 なんかすごく、すっきりした気持ち」
「それが俺の役割だったんだから」
 そう答えて、一ノ瀬は笑顔を見せた。

 ふと日が翳〔かげ〕った。 白熊のような形の小さな雲が、太陽の前をじれったいほどのんびりと横切っていった。
 瑠名の心にも、かすかな影が差した。 役割、という言葉が、宙に舞っていた瑠名の気持ちを無情に地上へ引き戻した。
――そうだった。 今日の会も、一ノ瀬さんにはバイトの一つだったんだ。 デートってわけじゃないのに、私ったら何はしゃいでるんだろう――
 瑠名は、握られている指を伸ばした。 そして、そっと一ノ瀬の手から抜き取ろうとした。
 とたんに、彼の足が止まった。 手がいったん瑠名を離し、次の一瞬でグッと背中を引き寄せた。
 直後、唇が重なった。 身長がだいぶ高いので、一ノ瀬の前髪が瑠名の額に柔らかく落ちかかった。

 瑠名の鼓動が、停止した。
 それから、爆発的に打ち始めた。
 今どこにいるか、何をしようとしていたのか、すべてが頭から飛んだ。 触れている唇に、意識が集中した。 彼さえいれば、もうどうでもいい思った。

 顔が離れて少ししてから、ようやく音が戻ってきた。
 そこにあるのは、陽射しの暖かさ、大気の揺らぎ、そして、彼の匂い…… 小さい時家で飼っていた柴犬に似て、頬をこすりつけたくなるような暖かい肌。
「わるい。 つい夢中になっちゃって」
 低い声が耳を打った。 一ノ瀬の胸に手を置き、上着をしっかり握ったまま、瑠名は強く首を振った。
「あやまらないで。 私も同じ気持ちだから。 あの……できれば、また会いたい」
 肩を抱き止めていた一ノ瀬の腕に、力が入った。 顔が再び近づいて、覗きこんだ。
「ほんと?」
 うなずきながら、瑠名は赤くなった。
 一ノ瀬は、小声で呟いた。
「ほんとか……」
 それから、いきなりすくい上げるようにして、再びキスした。



表紙 目次文頭前頁次頁
イラスト:アンの小箱
Copyright © jiris.All Rights Reserved
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送