表紙








とりのうた 80



**- 1993年夏(その3) -**


 医者がやって来たとき、義武は目を赤く腫らして玄関ドアを開けた。
 ホールは静かで、普段とほぼ変わりなかった。 ただし、壊れた陳列台は姿を消し、床はきれいに拭き清めてあった。
 医者は、居間のソファーに横たわるみゆき夫人を診察して、息絶えているのを確認してから、義武の許可を取って警察に連絡した。

 バルコニーと庭に、落下した痕跡が発見された。 いつものように花の世話をしにバルコニーへ出て、足をすべらせて落ちた事故死、ということで、決着がついた。


 翌日、みゆきの葬儀の二日前、義武は夕方に別荘を訪れた。
 古河博己は、庭の外れにあった壊れたベンチを直し、木陰に置いて、坐って海を見ていた。
 背後のガラス戸の開く音で振り返り、義武を見つけると、彼はすぐに立ち上がった。
「傷はどう?」
 義武の問いに、博己はしっかりと答えた。
「もう平気です。 お世話になりました。 僕、もう行かないと」
 義武は驚き、内心うろたえた。
「行く当て、あるの?」
「当てって……友達に相談しようと思ってるんだけど」
「君の友達なら、まだ十代だろう? 頼りになるのか?」
 うつむきがちになった少年を、義武はせかせるようにして家に入れた。 急いで相談しなければならないことがあった。


 本当に何が起きたかは、打ち明けられなかった。 それでも、できるだけ事実に近い話をした。
「おじさんにも男の子が一人いるんだ」
「ああ、ゲーム貸してくれた子ですね」
「そう。 僕が勝手に持ってきたんだけどね。 統真は、いなくなったんだ」
 博己の顔が、さっと上がった。
「家出……?」
「そうなんだ」
 演技しなくても、自然に声が湿った。
「夏休みに入ってから出たり戻ったりして、とうとう完全に消えてしまった。 妻は、あの子のことで悩んで、昨日飛び降り自殺を……」
 後が続かなくなったが、博己は察した。 そっと手が伸びて、義武の手に重なった。 それは、深い同情の仕草だった。
 とたんに涙が溢れ出した。 混乱していたし、良心の呵責と絶望が想像以上に強く、自制が効かなくなったのだ。
 いい年をした大人が、子供に、それも身寄りのない不幸な子供に慰められるなんて。 自分を笑いたかった。 でも、思い切り泣いたせいで随分気持ちが楽になった。
 後は、古河博己という小さな宝物を、しっかりと確保する作業を残すだけだった。


 おじさんの子供にならないか? という提案を、博己は何ともいえない表情で聞いた。
 みゆきの死がなかったら、説得しきれなかったかもしれない。 しかし、親切にしてくれたおじさんが、妻を失い、子に去られ、途方に暮れているのを見捨てるわけにはいかないようだった。
「うまく行くのかなあ」
 しばらく話を続けた後で、ようやく博己がそう呟いたとき、義武は大きく胸を撫で下ろした。
 勝った、と思った。


 夜になってから、義武は博己を本宅へ連れ帰った。
 統真は博己より五センチほど背が高く、服はわずかに大きめだった。 でも、今の子はルーズフィット、つまりだぶだぶが主流だから、似合わなくはない。 義武は、統真の部屋を締め切って鍵をかけ、博己には別の部屋を与えた。 そして、二人でカタログを見比べて、新しい家具や学用品をそろえるのに熱中した。

 本当に楽しかった。 夢のようだった。
 こんな跡継ぎがほしいと大抵の親が思う子。 それが博己だった。


 間もなく、博己の知識が充分になったと判断して、義武は少しずつ『統真』として連れ歩くようにした。
 並行して、転校手続を取り、誰にも顔を知られていない長野の中学に転入させた。 本物の統真は要領がよく、けっこう良い成績をあげていたため、最初は少し心配だったが、博己は統真以上の通信簿を持って帰ってきた。


 悪夢は終わったんだ、と義武は自分に言い聞かせた。 これからは『息子』を幸せにして、自分も不安なく生きよう。
 そのために、用心深い義武は、もう一つ手を打った。 近隣の児童養護施設を見学して、古河博己に姿形の似た男の子を捜したのだ。 それが、白井勇吾だった。
 福祉事業の一環として、義武は幾つかの施設に寄付をし、子供たちの後援者になった。 特に白井勇吾には目をかけ、K市に就職先を世話した。 理由はもちろん、ダミーとして本物の博己から注意をそらすためだった。


 博己が忽然と現れた後、義武の人生は見違えるように明るくなった。 仕事にもますます張り合いが出できた。
 終いには、彼を本当の息子だと思い込むまでになっていた。 もう何の迷いもなく。








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