白鳥は かなしからずや
空の青 海のあをにも 染まず ただよふ
―若山牧水―
1
近所に男の子が来るというのは、ちょっぴりわくわくするものだ。
二階の和室で腹ばいになって森鴎外をめくりながら、未夏は右隣の道に耳を澄ませていた。 夏休みの課題なんかどうせおざなりだ。 字面だけがちらちらして、内容はちっとも頭に入ってこなかった。
十時ちょっと前、車のエンジン音が近づいてきた。 未夏は急いで立ち上がり、クッキー片手に窓へ走った。
思った通りだ。 隣りの古河家の白いワゴンが、グラスファイバーの屋根付きの駐車スペースに入っていくところだった。
玄関から、プリントのワンピース姿の古河夫人紀和子が出てきた。 片手で息子の貞彦の腕を引っ張っている。 貞彦はチノパンのポケットに手を突っ込み、だらんと肩を落としてよそ見していた。
「よく来たわね。 暑かったでしょう。 さあ、入って」
紀和子が高い声で呼びかけた方角には、男の子が立っていた。 たしか一コ上の中学三年と聞いたが、年より子供っぽく見えて、未夏は少しがっかりした。
――なーんだ、ガキんちょやん。 ま、顔は貞彦より上だけど――
別に貞彦が並み以下というわけではない。 けっこうモテるという噂も聞いた。 だが、未夏の好みとは程遠い。 小癪なことに、向こうも未夏のことをそう言っていた。
「博己くん、貞彦覚えてる?」
「はい」
少年は、初めて口をきいた。 もう声変わりしていて、童顔に似合わないほど深い響きだった。
「貞彦、挨拶しなさい。 これから家族として一緒に暮らすんだから、いろいろ教えてあげるのよ」
母に掴まれていないほうの腕をゆっくり上げて伸びをすると、貞彦は気の乗らない声で尋ねた。
「泳げる?」
「うん」
博己少年は、はっきり答えた。
貞彦の父、一雄が、両手に荷物を持って車から出てきた。 貞彦が半分受け取って玄関に入り、紀和子も続いた。
博己も大きなバッグを二個下げていたが、誰も受け取らなかった。 少年は口をキュッと結んで、重そうに持ち直した後、最後に家へ入っていった。
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