表紙








とりのうた 78



**- 1993年夏 -**


 坂口義武よしたけがその情報を受け取ったのは、息子の統真が家出して二十日後のことだった。
 電話は、朝の七時過ぎに秘書の田町から来た。
「潮来インターで、統真さんらしい子がヒッチハイクしようとしているそうです。 大和へ行きますか、と通りすがりの車に訊き回っているらしいんです。 どうも様子が変で、酔ってるか、薬でも使ってるんじゃないかと思った人もいたようで」
「わかった。 わたしが直接行ってみる。 このことは誰にも話さないように」
「はい」
 事態に慣れている田町は、事務的に答えて電話を切った。


 三台ある自家用車の中から、スポーツタイプを選んで乗った義武は、眉を寄せて発車させた。 心は酸素不足の炭火のようにいぶり、暗い怒りに震えていた。
 義武の一人息子、統真は、両親のどちらにも似ない子だった。 遠い祖先までたどっていけば、どこの家系でも悪党の一人や二人はいる。 だが、それが自分の息子となると……。
 結婚九年目にようやく授かった子だった。 祖父母にとっても初孫だ。 喜びのあまり、大人たち全員で甘やかしたかもしれない。 その点は反省する。
 しかし、不思議だった。 可愛がられて育ったにもかかわらず、統真はまったく愛という感情を持たない子だったのだ。
 戦争や事故で手足を失えば、人の目につく。 一方、心のない人間は、外見ではわからない。 そっちのほうが遥かに重大な欠落なのに。
 統真は、姿が美しく、成績も並み以上で、学校ではおとなしくしていたため、先生や先輩にかわいがられた。
 その陰で、彼は級友の持ち物をわざと盗み、他の子の机に入れて、騒ぎになるのを楽しんだ。
 また、人の大事にしている動物を、密かに殺した。 学校で飼っているウサギ。 クラスメイトが誕生日に貰ったハムスター。 ペットの猫。
 義武がどう言い聞かせても、終いに殴って人の痛みを教えようとしても、統真には通じなかった。


 歯を強く噛みしめて、義武はインターのパーキングエリアに入った。 すると、ガードレールに浅く腰かけて、道路をぼんやりと見やっている少年が目に映った。
 その瞬間、義武の胸に驚くほど熱い感情が湧き上がった。 統真でないのはすぐわかった。 だが、途方に暮れている小さな姿は、統真には一度も感じたことのない深い同情を義武に呼び起こした。
 車を降りて近づくと、少年は顔を上げた。 傍で見ても、統真に似ていた。 ただ、眼だけがまったく違った。
 悲しげな疲れた眼で、少年は遠慮がちに義武に問いかけた。
「おじさん、大和に行きますか?」
 彼の横に腰を降ろすと、義武は優しく尋ねた。
「大和って、横浜の? それとも、桜川市の近くにある大和村かな?」
「たぶん、横浜。 よくわからないんです。 頭が痛くて」
 そう呟きながら、少年は左手で後頭部を触った。 その手に血がついたので、義武ははっとして少年の髪をそっと掻き分け、傷を発見した。
「大変だ。 君、怪我してるよ」
「やっぱり。 なんかそんな気がしたんだけど」
 かわいそうに。
 もうそのことだけしか、義武の頭になくなった。 この子はきっと虐待されたんだ。 親がいじめて、殺そうとしたのかもしれない。
「大和に家があるのかな?」
「うん……わからない。 でも、きっとそうです」
 こんな目に遭っても帰りたいのか。 いや、そこしか帰るところがないんだ。
 怒りで胃が痛んだ。 気がつくと、義武は少年を抱えるようにして、自分の車に乗せていた。


 近くの別荘に連れていって、知り合いの医者を呼び、手当てをしてもらった。 この子は木登りをしていて落ちたと話した。 すると、医者は少年を統真と思い込み、まったく疑わなかった。
 そのときに、おっと思った。 人は、他人の顔など真剣に見ていない。 ある程度似ていれば、それで通用してしまうのだ。
 傷の手当てが済んだ少年は、ほっとしたのだろう。 客用寝室のベッドで深い眠りに落ちた。 義武が仕事を早く切り上げて、午後四時に別荘へ戻ったときも、まだ眠り続けていた。


 義武は、途中の店で折り詰めを買って持っていった。
 少年は、五時過ぎに起きてきた。 だいぶ顔色がよくなり、元気が戻っていた。 記憶はまだはっきりしないようなので、無理に訊かず、義武は彼と二人で夕食を取った。
 話せば話すほど、少年の魅力は増した。 心の通じない息子との不毛な日々に疲れはてた義武には、この子は一種の奇跡に思えた。
「傷が治るまで、ここにいていいよ」
と、義武は彼に言った。 別荘にはいろんな品が置いてある。 高価なものもあった。 それを少年が持ち出して売っても、構わないと思った。



 翌日の夕方に顔を出すと、少年はずいぶん回復していた。 もう一度医者を呼んで包帯を換えてもらい、統真が飽きて捨てたゲーム機を渡した。 少年は感謝して受け取った。


 それから二日間、食事代だけ渡しておいて、義武はわざと別荘から遠ざかった。 忙しかったし、大人のいない間に少年がどんな本性を見せるか、知りたくもあったからだ。
 統真と同い年ぐらいの少年を保護していることを、義武は誰にも話さなかった。 妻のみゆきにもだ。 もし統真が帰ってきて、みゆきの口から少年の存在を知ったら、どんな嫌がらせをするかわかったものじゃない。 義武は、少年をこれ以上の危険にさらしたくなかった。



 三日目、午後の時間が空いたので、義武は別荘に行った。 玄関の鍵を開けて中に入り、いつものように、来たよ! と声をかけたが、返事はなかった。
 どうしたんだろう。 胸がちりちりした。 一階を全部探し、二階も見た。 少年はいない。 失くなっている品物もなかった。
 なんて正直な子なんだ、と義武は驚いた。 同時に、ひどく心配になった。 何も持たずに出ていったのか?
 最後に庭へ出てみた。 すると、少年はそこにいた。 昨夜の風で倒れたのだと言って、アイビーをからめたラティスを修理していた。
 夏の夕陽は強烈だ。 少年がちゃんといたので嬉しくなり、上着を脱いで手伝った義武は、久しぶりに汗だくになった。
 それでも、心地よかった。 こんなふうに息子と共同作業ができるなんて……
 いや、息子じゃない!
 気付いて、義武はぎょっとした。 わずか数日で、少年は統真より遥かに近い存在になっていた。


 二人ともシャワーを浴びて着替えてから、義武は改めて少年に尋ねた。
「どうだ? 思い出したかい? 君は誰で、どうして怪我したか」
 リビングの椅子にきちんと腰かけた少年は、義武の大きなシャツと半ズボンを着て、頭を撫でてやりたいほど子供らしく見えた。
「僕、古河博己といいます」
 彼は、まっすぐな声で言った。
「中三で、横浜の○○中学生です」
「大和に住んでるんだね? それがなぜ、茨城にいたの?」
 初めて、少年は話しにくそうになった。
「……言っても、信じてもらえないと思う」
「いいから話してごらん。 君が怪我してるのは本当なんだから、話もきっと本当だろう」
 博己少年は、ぽつぽつと語った。
「親たちと妹が交通事故で死んで、叔父さん家に引き取られたんです。 親切にしてくれて、友達もすぐできたんだけど、叔母さんが急にいろんな物、指輪とか買うようになって、叔父さんと喧嘩してて、わかったんです」
「何が?」
「僕の貯金、使ってるらしいって」
 ああ、死亡事故の保険金…… 義武は暗澹とした気持ちになった。
「だから叔母さんの箪笥から出して、隠したんです。 通帳がなくなれば使えないと思って。 そしたら、夜になって叔父さんに浜へ連れてかれて、どこへ隠したって突き飛ばされて、ガーンってなって、後は覚えてないです」
 そのときの怪我か。 岩か何かに頭をぶつけたのだろう。
「気がついたら、インターチェンジにいたの?」
「いえ……家に戻ってました。 煙が凄くて、這って階段を下りました。 今考えると、僕の部屋だけ燃えてたから、たぶん火つけて殺そうとしたんだと思う。 そのときは頭がぼんやりしてて、こわくて、できるだけ遠くまで逃げました」


 鬼だ。
 事業家の義武は、欲で人間が鬼に変わることがあるのを、よく知っていた。
 唾を飲み込んでから、義武は博己に頷きかけた。
「もう心配ないよ。 ここは安全だからね」








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