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車道に踏み出しかけていた未夏の足が、びくっと止まった。
呼んだのは、若い声だった。 まだ大人になりきっていない、やや不安定な揺れる声。
遠い時間の向こうから響いてきたような呼びかけに、未夏は首をすくめるようにして振り向いた。
だぶついたカーゴパンツを穿いた男の子が、街灯の傍に立つピンクのTシャツに走り寄っていった。
「おそーい!」
「ごめ。 道一つ間違えた」
子供っぽい話し声が遠ざかっていく。 未夏は我に返り、ちょっと微笑して道を渡った。
博己のはずがない。 理性ではわかっていた。 だが今の呼びかけは、もう記憶の中にしか存在していない博己の変声期の声に、あまりにも似ていた。 一瞬、現在の自分を呼んだと錯覚してしまうほど。
未夏はゆっくり歩きながら、ふと思った。 これは、過去と決別しろという運命の知らせなのかもしれない。 現実は地味なものだ。 単調な毎日の繰り返しで、ドラマティックな出会いなんてない。 飽きない相手を選ぶのが一番なんだ。
未夏は昨日から、達弥の申し込みを今夜受けると決めていた。 まだ心のどこかに引き止めるものがあるのは、マリッジブルーということなんだろう。 そうだそうだ、と自分を納得させ、頭を上げた。
その目に、見覚えのある車が映った。
歩道の横に、無造作に停めてある上等な国産車。 艶消しのシルバーカラーが上品なその車は、ライトを消して真っ暗だった。
こんなところに駐車しとくと、すぐレッカーされそうだ――気になって、視線を据えたまま通り過ぎようとしたとき、運転席の黒い塊が目に入った。
人が乗っていた。 これなら駐車違反にはならない。 安心して足を速めた未夏を、低く呼ぶ声がした。
「小此木さん?」
ちょっと驚いて、未夏は車を振り向いた。 坂口が、ドアを半分開けて顔を出していた。
「あ、こんばんは」
明るく挨拶したが、坂口はそれには応えず、ドアに寄りかかるようにして、大きく息を吐いた。
「小此木さん、運転できます?」
いくらかめりはりを欠いた声が、そう尋ねた。
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