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表紙

透明な絵 ≪106≫

 五月初めの連休に、牧田と陶子は婚姻届を出しに行った。
 牧田の両親は日本国籍のままだったので、本籍地から戸籍抄本を取り寄せるだけでよかった。 結婚式と披露宴は、父悠輔を失った悲しみが薄らぐ秋以降にしようと、二人で決めた。


 とたんに、毛利と紫吹も書類を揃え始めた。
「なんで競争するんだよ」と、牧田が文句を言うと、紫吹はケロッとした顔で答えた。
「競争じゃない。 コータちゃん達がやってうまく行ったのを、お手本にしてるだけ。 後に伸ばしたら、忘れちゃうかもしれないでしょ?」
「真似っこばかりしてると、独り立ちできないぞ」
「もうしない。 自分の家庭が持てるんだもの」
 不意に紫吹の表情が真面目になった。
「ずっと兄ちゃんを頼りにしてたから、どんどん陶子さんのほうへ気持ちが行っちゃうの見て、不安だった。
 いやじゃなかったよ、陶子さん大好きだし。 ただ、これからどっち向いて生きればいいのかなあって」
「そこへ毛利がつけこんだわけだ」
「つけこんだんじゃないよ、失礼だな」
「いいじゃないか。 好きになったらいろんな手を使うんだよ。 生存競争なんだから。
 毛利はほんとに紫吹に惚れてると思うよ。 でも元は他人だってこと忘れるな。 あんまりコキ使うと喧嘩になるからな」
「誰がコキ使うって?」
 紫吹はアパートの畳にペタッと座り、兄にしかめっ面をしてみせた。
「彼は面倒見がいい人なの。 大学でも合宿所の屋根直したり、学費払えない友達のカンパしたりしてたんだから。
 今だって、住んでる古い家をコツコツ手直ししてるのよ。 ストレス解消になるんだって。 私もあの家好き。 結婚したら庭を担当することになってるの」
「たしか、独身の伯父さんの遺産だったよな」
「そう。 もう大感謝。 いまどき一戸建てだよ。 小さくて古いけど、交通の便がいいし、道に面してるから日当たりもいいし」
 毛利の実家は香川県で、大きな家に住んでいる。 関西の大学に進学するつもりだったが、たまたま東京の家を譲られたので、下宿代がただになるということで、こっちの学校に入った。
「弟さんが実家の商売を継いで、(毛利)高夫くんはここに残っていいって。 ご両親もいい人なんだ」
「結婚しても高夫くんか?」
「高夫ちゃんのほうがいい?」
「一段とまずいだろう。 うーん、何と呼ぶべきか」
「ダーリンにしようっかな!」
 そう叫ぶと、紫吹は畳を転げまわって爆笑した。




 新居に決めた牧田のマンションで、その会話を聞いて、陶子は考え込んだ。
「やっぱり紫吹ちゃんに寂しい思いをさせたんだわ」
 新しく買った回転式ネクタイ掛けにブルーのタイを挟む手を止めて、牧田は振り向いた。
「気にしない。 いつかは必ずそうなったんだから。 俺、独身を通す気なかったし」
「そうね」
 ベッドのサイドテーブルに広げた雑誌を片付けながら、陶子はなおも思いに沈んだ。
「新しい生活に踏み出すのって、最初は勇気要るものね」
「まっさらだもんな。 何も映ってない。 被写体のないレンズだ」
 透明な画面か──そこに日々の暮らしが積み重なって、思い出という絵ができる。 初めは見えなかった未来が現在になり、過去になってゆく。
 素敵な写し絵が沢山残せるといい。 素晴らしい家族の記憶が、満ち溢れますように。
 はるかな未来に夢を込めて、陶子は自然に手を差し伸べていた。
 結婚指輪を嵌めたその両手を、牧田はがっちりと握り返した。
 温かく、力強い手だった。






[終]





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