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表紙

透明な絵 ≪90≫

 陶子は、子供のように手の甲でごしごしと涙を拭いた。
「もう下に行ったと思ってた」
「ドアに寄りかかってたんだ。 君がまさか」
 声にかすれが入った。
「あんなこと言ってくれるとは予想もしてなかったもんで、なんかガタガタになっちゃって」
「ガタガタ……?」
「うん」
 牧田は頭を前に落とした。 柔らかめの髪が、陶子の首筋に触れた。
 とたんに、電流に似たものが陶子の体を走った。 座ったまま上半身をねじると、陶子は牧田の胴にしゃにむに抱きついた。
 今度は牧田も離れなかった。 逆に強く引き寄せ、幾度も陶子の頭に頬をこすりつけた。


 二人の間に、言葉は消えた。 牧田は驚くほど軽々と陶子を持ち上げ、ベッドに運んでいって横たえた。 それから、激しいキスに突入した。
 外国育ちだからか、牧田のキスは巧みだった。 優しく唇をなぞっていたかと思うと不意に情熱的になり、また緩やかなテンポに戻る。 数分で、陶子はぼうっとした気分になって、まともに考えることができなくなった。
 たぶん、それでよかったのだ。 やがて陶子は、身を任せるという言葉の真の意味を知り、潮に引かれるように大海の渦の真っ只中に巻きこまれていった。


 カーテンを通して入ってくる朝の光が、次第に明るさを増していく中、陶子は大きく胸を上下させながら、淡いベージュ色の天井を黙って眺めていた。
 横で牧田が陶子の手を取り、裏返して手のひらに唇をつけた。 柔らかく、しっとりした感触だった。
 遠泳をした後のように、体がけだるく重い。 このまま二人で眠りに落ちてしまえたら、と陶子は願ったが、それは叶わぬことだった。 私的な幸せで、義務を放り出してはいけない。
 肘をついて身を起こそうとしたとき、肩口から背中の半ばまで牧田の指がゆっくりとたどった。 陶子の体内に快い震えが走った。
「ビーナスの誕生みたいだ」
「え?」
 手が首の付け根に上がり、また撫で下ろした。
「ボッティチェリの絵。 でも君のほうがきめ細かい。 絹のようだ」
 陶子は、肌をすべる男の手を取り、頬に持っていった。
「ペルーへ連れていってくれる?」
 横たわったまま、牧田は半ば眼を閉じて頷いた。
「どこへでも。 君が望むところへ」







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