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≪89≫
牧田は、陶子を一瞬抱きしめてから、すぐ手を離して両脇に垂らした。
「こんなのは駄目だよ、陶子さん」
陶子は目を見張った。
首筋の辺りから、急に体温が引き、足元まで冷えが広がっていった。
ゆっくり踵を下ろして、体を離そうとしたとき、背中にそっと腕が回って、引き止められた。 強ばった声が後を続けた。
「前に報道カメラマンだったことがあるんだ。 少しの間だけど。
事件や事故が起きて、助けたり助けられたりすると、相手がすごく大切に思えるんだよ。 危機を脱した後の興奮状態は、たぶん恋愛に似てるんだと思う」
「そんなのじゃ……」
むきになって言い返そうとした陶子に、牧田の穏やかな声が被さった。
「距離を置いて気持ちが落ち着いたら、本心がわかるよ。 さあ、会社まで送っていくから、元気出して」
そう言い残して、牧田は部屋を出て行った。 陶子は、はぐらかされたような気分で、のろのろとスツールに腰を下ろした。
やがて、恥ずかしさで顔が火照りだした。 牧田は冷静だった。 少なくとも、そう振舞っていた。 それに比べて、自分はどうだっただろう。
体は冷たくなっていったが、頭は熱いままだった。 もう一度彼に想いを打ち明ける勇気が、自分にあるだろうか。
どうも、ないような気がした。 牧田は、妹が一人増えたと思っているだけかもしれない。 それなら自分の想いは、いつまでも宙ぶらりんでさまようしかない。
陶子は両手で顔を覆った。 やがて涙が溢れてきて、泣き声を押さえられなくなった。
このままでは目が腫れて、ひどい顔になる。 わかっていても、涙が堰を切って流れた。
ガタンと音を立てて、ドアが開いた。 走ってくる足音がして、背後から覆い被さるように抱きしめられた。
「ごめん……!」
さっきとは別人のように乱れた息が、陶子の頬を焼いた。
「ごめん、泣かせちゃって。 俺もう、自分が怖くなっちゃってて……。
これが終わったら離れなくちゃいけないと、ずっと自分に言い聞かせてたんだ。 そんなこと、できっこないのに!」
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