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表紙

透明な絵 ≪88≫

 牧田の腕の中で、陶子は考えるのを止めた。 今を思い煩うのも、未来を細かく構築するのも。
 この時間は、彼さえいればいい。 他に、何もいらない。 時はうつろい、姿を変えていくものだから、幸せなひとときには、ためらわずにひたっていたい。


 先に我に返ったのは、牧田のほうだった。 彼はもぞもぞと体を動かし、少し陶子を遠ざけた。
「支度が、あるよね。 僕はあっち行ってるから」
「これから、どうなるの?」
 ひたむきに見上げた陶子の視線を避けて、牧田は斜め横を向いた。
「君は会社に行く。 僕はすぐ飛行機の手配をして、地球の裏側へ……」
「私も行きたい。 だから一日だけ待って」
 牧田はパッと顔を戻した。
「そうはいかないよ。 君が留守の間に、社内が大荒れになるかもしれない。 それに、二人だけで行くと」
「噂になる?」
 陶子は、激しく首を振った。
「父の弔いに行くのよ。 当然のことだわ」
「会社の誰かを連れていくべきだ。 誰か、信頼できる人を」
「サニックスは母の会社で、父のじゃないから」
「でも、今は君の会社だ」


 最後の言葉は、ずしっと陶子にのしかかった。
 それだけに、こんなときでも正論を言える牧田が、いっそう頼もしく思えた。
「私が信頼できるのは、あなたたちだけだわ」
 本心が呟きとなって、口からこぼれ落ちた。
 牧田の眼が揺れた。 本当に困っているようだった。
「僕と妹は口を出せないよ。 君の人生だから」
「そうかもしれないけど」
 不意に彼が遠くなった気がした。 無意識の焦りが声になった。
「私は大株主の一人になることだってできる。 経営から手を引けば、喜ぶ人がたくさんいるわ」
「それで君は満足できるのか?」
 満足は……たぶんできない。 祖父が作り、母が支えてきた社の方針や理念を、陶子も引き継いでいきたかった。 そして、時代に合わせて、少しずつでも改善を続け、長く愛される商品を作り出したいと願っていた。
 陶子の両肘を優しく掴むと、牧田はかがみこんで顔を近づけた。
「君は人を見る目がある。 佐々川だってそう言っていた。 自信を持ちなよ。 元気出して」
「あなたのいない世界で?」
 牧田の表情が、驚きで化石のようになった。


 数秒間、二人はまったく動かずにいた。
 やがて陶子は、牧田の手を肘から外し、背伸びして彼の首に両腕を巻きつけ、顔を押し当てて頬ずりした。
「一緒にいたい。 できるだけ離れたくない。 勝手だけど、こんなに好きになったら、もうどうしようもないの」







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