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表紙

透明な絵 ≪84≫

 それからしばらくは、プラ袋をガサガサ開ける音がテーブルを覆った。
 紫吹がインスタントコーヒーの瓶を出してきて、陶子がマグを並べ、牧田がポットから熱湯を注いだ。 砂糖を入れただけのブラックで、少し固くなったサンドイッチを喉に流し込んだその食事は、陶子にとってこれまでで最も美味に感じられた。
「なんのかんので、もう十一時近いのな」
 時計を見て、牧田は改めて吐息をついた。
 紫吹がはしゃいで、手を打ち合わせた。
「お腹が空くと、なんでもおいしいね」
「これでもうぐっすり眠れると思うと、心底嬉しいよ」
「想像つかなかった。 佐々川さんが、ここまでやる人だなんて」
 陶子の呟きに、兄妹は同情の眼差しを向けた。
「きっかけはマヌエル秦だろうな。 あいつがお父さんになりすまして金を奪うなんてことしなければ、こんな計画は考え付かなかったはずだよ」
 紫吹が思いついて座りなおした。
「ねえ、マヌエルはそのお金を使っちゃって困ってたんだよね? どうして兄ちゃんと私の奨学資金に手つけなかったのかな?」
「信託になってたからじゃない? それに、あなた達を巻き込むと、調査されて自分が偽者だとわかるのが怖かったんでしょう」
「ああ、そうか〜」
 納得した後で、紫吹はまた別のことを思い出した。
「それと、あの犯人オヤジ、駆け落ちとか言ってなかった? 相手は誰なんだろ?」
 紫吹の問いに、陶子は当惑した。
「そうね、私には見当つかないけど、今ごろ空港で待ってるかしら」
「かもな」
 牧田が憎らしそうに口を尖らせた。
「陶子さんから逃走資金を脅し取って、物価の安い外国で女と暮らすつもりだったんだ。 あのクズ野郎が!」


 サンドイッチとおにぎりだけでは足りなくて、家のあちこちからかき集めたジャンクフードを食べつくすと、三人はようやく満腹になった。
 やがて瞼が落ちてきた。 ストーブと、若者たちの体温で、狭いリビングはほどよく暖まっていた。 カウチやクッションに寄りかかって、三人は次第に無口になり、ほどなく眠りに落ちていった。


 寝入ってから間もなく、陶子は父の夢を見た。
 初めは、子供の頃に戻って、父の膝に抱かれていた。 母のふっくらした腿と異なり、父の脚は固く筋張っていて、カイロのように温かかった。
「お帰りなさい」
 夢の中で、陶子は自分の幼い声を聞いた。 そして、遠い記憶からよみがえってきた父の深い声も。
「ただいま。 ずっと留守しちゃったね」
「どこに行ってたの、お父さん?」
「ああ、南米だよ。 ペルーという国。 北から南に細長く伸びているんだ。 お父さん、そこに工場を建てるんだよ。 そしてね、体にいいものを作るんだ」
 瞬間に景色が変わり、目の前に果てしない草原が広がった。 本当のペルーとはちがうかもしれないが、その雄大な眺めは、陶子にとって悠輔が心に描いた夢に思われた。
「ここに事業を展開したかったのね」
 今の陶子が、若いままの父に尋ねた。 父は横に立って、弾むように頷いた。
「やっとわかってもらえたね。 ずっと寂しかったよ。 僕が陶子とお母さんを置いていくはずないだろう?」
「そうね。 ごめんなさい、お父さん」
 夢を見ながら、陶子は涙を流した。 長く心を締め付けていた重荷が次第に消え、解き放たれた幸福感がふわりと体を軽くした。







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