表紙目次文頭前頁次頁
表紙

透明な絵 ≪64≫


 そこで、牧田は震える息をついた。
「これまでで、あんなに驚いたことはない。 まじで頭がくらくらした。 考えられないよ。 あれほど心が優しくて、天使みたいな人が、黙って家を出るなんて」
 その通りよ! と、陶子は胸の奥で叫んだ。 お父さんが自分勝手に消えるはずはない。 やっぱり、そんな人じゃなかったんだ。


 陶子をずっと抱きしめていたことに気付いて、牧田はそっと腕を伸ばし、二人の間に距離をあけた。
 でも、手は離さないまま、情のこもった眼差しで陶子の顔の輪郭をたどった。
「似てるよ。 顎の線とか、目の形とか。 君のほうがずっと美人だけど」
 陶子はかすかに頭を振った。
「母は、もっと父を信じるべきだったんだわ」
「信じる?」
「ええ。 人が何と言おうと、何を見ようと」
 そう呟くと、陶子はバッグに手を入れ、写真のコピーを取り出した。 そして、牧田に黙って渡した。


 けげんそうに紙に目をやった牧田は、そこに十代の自分を見たとたん、激しく息を吐いた。
 写真に視線を釘付けにしている青年を見上げると、陶子は静かに言った。
「郵便の中に混じっていたの。 誰かが私に見せようとしたのよ。 きっと母にも、同じことをしたんだわ」
 だから唐突に、母は父を探すのを止めた。 父を思い出すものをすべて処分し、忘れようとした。 それはきっと、写真を送った人間の思う壺だったろう。


 まだ陶子の腕を握っている牧田の指に、痛いほど力が入った。 陶子が顔を上げると、彼の目が真っ赤になっているのがわかった。
 乱暴に片手で涙を拭った後、牧田は怒りを爆発させた。
「誰だい! そんな汚いことしやがって! 実の親以上にやさしくしてくれた人を、お父さんと呼んで何が悪いんだ!」
 陶子は、胸が絞られるように痛くなった。 悲しみと憤りで混乱している牧田が、たまらなく愛おしかった。
「悪くないわよ、牧田さん。 父はあなたを見込んで後押しした。 そして牧田さんは、父の期待以上に誠実な人だった。 今の牧田さんを父が見たら、きっと喜ぶと思う」
 牧田の喉が、ごくりと鳴った。
「俺のこと……腹違いの兄弟だと思った?」
 陶子は一瞬唇を噛んだ。
「思いそうになった。 違って、本当によかった。 だって、兄さんじゃ……」
 恋人になれない、と言葉がこぼれそうになり、陶子は慌てて口をつぐんだ。








表紙 目次前頁次頁
背景:Vega
Copyright © jiris.All Rights Reserved
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送