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表紙

透明な絵 ≪55≫


 ためらいをごまかすために、陶子はもう一度咳をした。
「ええと、小池さんというんだけど」
 わざと別の名前を言って、相手の反応をうかがった。


 予想した通り、紫吹はわずかにハッとした。 素早い視線が陶子の顔をかすめ、横に揺れた。
――知ってるんだ。 昨夜、誰が私を迎えに来たか……。
 もしかして、牧田さんと紫吹ちゃんは顔見知り?――
 その瞬間、電光のように続きの真実がひらめいて、陶子は息を呑んだ。
――やっぱり、この人の言ったMは、牧田の頭文字なんだ。 牧田さんが話していた妹って、この人だ!――


 人の意志疎通は、言葉だけではなく、実に半分近くが身振りや表情で成り立っているのだそうだ。
 このとき、狭い部屋で向かい合った娘二人は、お互いの雰囲気だけで、相手の心を悟った。 紫吹は、自分の正体が知られたのを感じ取り、陶子のほうは、紫吹が言いつくろうのを諦めたことに気付いた。
 黙ってしまった紫吹を正面から見つめると、陶子は静かに続けた。
「ここに来たのは間違いだったみたいね。 あなたも忙しいでしょうし、外で待ってもらってるから、もう行かないと」
 紫吹は、陶子につられて立ち上がりながら、鋭い声で尋ねた。
「小池って誰?」


 誰だったろう。
 とっさに思いついた名前が何か気付いて、陶子の口の端に苦い笑いが浮かんだ。
「大学の先輩」
 それは、陶子が密かに憧れていた二学年上の男子だった。 たぶん今ごろは、陶子の名前さえ覚えていないだろうが。
 紫吹の手が伸びて、陶子の腕に触れた。 可愛い顔が引き締まり、目が必死な表情を浮かべて、青いほど澄んで見えた。
「藤沢さん、私のこと信用するの止めた?」
 無言で、陶子は紫吹を見返した。 この人は、半分血のつながった妹なんだろうか。 整った魅力的な顔立ちには、父の悠輔に似たところは感じられなかった。
 紫吹は困った様子で、唇を噛むと視線を泳がせた。 陰謀をたくらむ悪女とは程遠い。 むしろ、いたずらの途中で発見されて、逃げ場を探している子供のように見えた。








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