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表紙

透明な絵 ≪54≫

 最初にドアチャイムを押したときは、何の反応もなかった。
 今日は週日の水曜日だから、やはり留守なのか。 また寄付集めに行っているのだろうか。
 しかたがない。 どこかで時間を潰して、暗くなったら戻ってこよう、と心を決め、階段を下り始めたものの、陶子はふと気を変えて、ドアの前に戻った。 もう一回だけ、運を試してみようと思った。
 ボタンに指を置き、ピンポーンという音を響かせるか響かせないかの内に、突然ドアが開いて、陶子は思わずのけぞった。
 ノブに手をかけたまま、紫吹が体を乗り出して、まじまじと陶子を見つめた。
「あ……あれっ? どうしたの?」
「あの」
 ほっとしたのと、きまりが悪いのとで、陶子はうまく口がきけなくなった。
「相談したいことが……」
「わかった。 入って」
 紫吹は素早く言い、大きくドアを開け放って、陶子を招き入れた。


 リビングに入ると、紫吹は小栗鼠のようにめまぐるしく動き回った。 陶子のコートを脱がせ、カウチに坐らせ、傍に腰を下ろすと、例のおいしいインスタントコーヒーを作った。
「顔色がひどいよ。 さあ、これ飲んで」
「ありがとう」
 陶子がカップを半分ほど空けるのを見守った後、紫吹はいきいきとよく動く眼を、彼女に据えた。
「で、相談って?」
「あのね」
 話し出したとたん、コーヒーが喉にからまった。 陶子は慌てて、上着のポケットからハンカチを取って口に当てた。
 咳が収まり、テーブルに置いた薄手のハンカチを、紫吹は興味津々で眺めた。
「きれいなローンね。 レースとか、イニシャルまでついてる」
「ああこれは、母のバースディプレゼントだったの」
「大事な思い出の品なんだ。
 いいなあ、いかにも女の子してるって感じで。 私なんかパイルのハンドタオルばっかりよ。 イニシャルなんか頼まれてもつけないし」
「なぜ?」
 陶子が何気なく訊くと、紫吹は笑い出した。
「怪しいんだもの。 だって、S・Mよ」


 そうなんだ、と、軽く聞き流して、陶子はまたコーヒーに口をつけた。
 自分の悩みで頭が一杯で、周りのことまで考えられなかったのだ。
「これからどうしたらいいか、わからないの」
「え? どういう意味?」
「次から次へと信じられないことが起こるっていうか、もう頭がごちゃごちゃで」
「何があったの? もうちょっとわかるように話して」
「あの、昨夜迎えに来てくれた人なんだけど、名前は……」


 牧田、と言いかけたとき、脈絡なく一つの考えがひらめいた。
 牧田の頭文字は、Mだ。
 だが、紫吹の苗字が、同じMで始まる? たしか天藤紫吹じゃなかったか?
 とすれば、イニシャルはS・Tのはずだ……!









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