表紙目次文頭前頁次頁
表紙

透明な絵 ≪47≫

 やがて、牧田の顔が降りてくる気配がした。
 陶子は反射的に期待した。 キスされるかな……。
 彼の唇は、陶子の額に近づき、そっと触れて、チュッと小さな音を立てた。


 それだけでも、陶子の心臓は高鳴った。 友情か、せいぜい慰めのキスというところだろうが、思いやりは充分伝わってきた。
同時に、熱い望みが湧き上がった。 とっくに成人しているが、陶子には本格的なキスの経験がない。 高校のとき、理科準備室で、不意に抱きしめられて唇を奪われそうになったことがあるだけだ。 そのときは、反射的に顔をそむけて、未遂に終わらせた。 好奇心より嫌悪感のほうが先に立ったのだ。
「藤沢さんは潔癖症だからね」
と、大学時代の友人に言われた覚えがある。 やたらに清潔好きだとは思わないが、確かにむやみになれなれしくはできない性格だ。 いや、むしろ人見知りだ。
 だから、こんなに男性を近づけたのは初めての経験だった。


 陶子は顔を上げて、ぼうっとした眼で牧田を見つめた。 どうやったら誘えるのかわからない。 できるだけ無防備に見せたい、と、それだけを考えた。
 牧田はわずかに微笑み、それから真顔に戻った。
「さて、と」
 不自然なほど明るい声が言った。
「警察に連絡する? ここの住所、言っていいよ。 ええと」
 彼が口にしたのは、武蔵野市の一角だった。
 すっと腕が離れるのを、陶子はなんだか物足りない気持ちで感じ取った。 


「明日の朝は九時に出るんで、その後は何でも自由に使って。 じゃ、おやすみ」
 ドアが閉まった。 階段を下りていく足音が遠ざかる。 陶子は、いったん携帯電話を取り出したが、結局ベッドの上に放り出して、先に風呂を使うことにした。 もやもやした気持ちの、ささやかなはけ口だった。


 洗面台脇の戸棚には、さしあたり必要なものがすべて揃っていた。 新品の歯ブラシと練り歯磨き。 液体石鹸のボトル。 添加物なしの化粧水、クリーム、コロン。 真っ白なタオル大小。 コットンのガウン。 上質なヘアブラシ。 すべて未使用だった。
 その他に、ドライヤーとペーパータオルが、白い壁に設置されていた。
 なんて用意がいいんだろう。
 誰かをさらってきても、一ヶ月は楽に閉じ込めておけそうだ、と、陶子はちょっと意地悪く考えた。











表紙 目次前頁次頁
背景:Vega
Copyright © jiris.All Rights Reserved
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送