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透明な絵 ≪36≫

 確かに、電話からは牧田の声しか伝わってこなかった。 周りの雑音はまったくない。 彼の穏やかな息の音さえ、かすかに聞こえるほどだった。
 のろのろと携帯を耳に戻すと、陶子は囁いた。 怖くて、はっきりした声が出せなかった。
「犯人は、私じゃないの」
 すると、期待した通りの明るい声が返ってきた。
「決まってるじゃん!」


 その一言で、どんなにホッとしたか。
 誰かに信じてほしかったんだ、と、陶子は気付いた。 誰でもいい。 無条件に自分を信じ、事情を訊いてくれる相手なら。
 紫吹は、そこまで信用してくれるだろうか。 陶子には自信がなかった。 夜中に逃げ出すところを見られているのだ。 殺人を犯して家を飛び出してきたと、紫吹が思っても不思議はなかった。


 次の言葉を探していると、牧田のほうからまた話しかけてきた。
「今、一人?」
「ええ」
「誰かにかくまわれてる? 会社の人とか?」
「いいえ」
 反射的に答えてしまって、陶子は唇を噛んだ。 庇ってもらってるじゃないか。 天藤紫吹に。
 でも、紫吹の名前を出さないほうがいいにきまっている。 そう思い直して、陶子は訂正しなかった。
「じゃ、どこかに一人でいるんだね?」
「ええ、まあ……」
「会社にも連絡してない?」
「誰にも」
「なんか、嬉しいな」
 唐突に、牧田は場違いなことを言った。
「僕にだけかけてくれたんだ。 まあ、初めは口きいてくれなかったけど」
「迷惑だといけないと思って」
「どうして?」
 本当に驚いた口調で、牧田は尋ね返した。
「君は容疑者にもなってないんだよ」
「すぐなるわ。 出頭しないと」
「警察に行きたい?」
「ええ……行きたくはないけど、疑いを晴らすためには。 それに、何が起きたのか私にも全然わからない状況で」
「よし」
 きっぱりと、牧田が声を出した。
「一緒に警察へ出頭しよう。 すぐ迎えに行くよ。 どこへ行けばいい?」








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