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表紙

透明な絵 ≪35≫

 テレビのニュースをもう二つほど見たが、すでにわかっている情報ばかりだった。
 陶子は、警察に連絡したくてしかたがなかった。 紫吹のメモと、かくまってもらったことで彼女に迷惑をかけるのではないかという心配がなかったら、もうとっくに電話しているはずだった。


 時計表示が八時を示したとき、陶子は五度目に携帯を開いた。
 紫吹はどうしたのだ。 あわただしく飛び出していってから、もう二時間近く経つ。 陶子の自宅の周囲には規制線が張られ、野次馬の視線にさらされているだろうから、たとえ紫吹がニュースを見なくても、異変がわかったはずだ。
 早く帰ってきて、と懸命に念じながら、陶子の指は電話のアドレス帳を上下にたどった。
 神経質に動く指先が、一つの名前を偶然に捉えた。


 牧田幸多


 それは、レストランで食事をしたとき、お互いに教えあった電話番号だった。


 陶子は、激しく瞬きしてから、非通知にして、ピッと押した。
 絶対に電話をかけてはいけない、と紫吹は書き残した。 だが、声を聞くだけならいいはずだ。 こちらが何もしゃべらなければ。
 もう我慢できないほど心細くて、陶子は人の声を聞きたかった。 いつも明るくてのんびりした牧田は、気持ちを元気にする役目にはうってつけだった。


 三回鳴った後、牧田が携帯を取った。
「はい、牧田」
 陶子は、痛いほど電話を耳に押しつけた。
――牧田さん、ニュース見た? とんでもないことになったの。 信じられない――
「もしもし?」
 返事がなくてもすぐ切らずに、牧田はもう一度呼びかけてきた。
――駅前で大きな花束持ってたことあったでしょう? あのとき、タクシーの中にいたのが、被害者なの。 あなたに話したい。 相談したい。 牧田さん!――
 必死になって、唇が考えたとおりに動いた。 でも、まったく音は出していないはずだった。
 受話器の向こうで、あっ、という小声が響いた。
 それから、不意に牧田の声が低くなった。
「あの、もしかして、藤沢さん?」


 きゃっ!


 火がついたように、陶子は電話を耳から離した。
 牧田のぼそぼそ声は、早口になって畳みかけるように続いた。 静かな部屋だから、電話を遠ざけても陶子まで届いた。
「事件のこと、テレビで見た。 お宅の正門が映ってた。
 大丈夫だよ、今話しても。 用心で声落としてるけど、傍には人いないから」








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