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表紙

透明な絵 ≪11≫

「牧田〔まきた〕」
 青年は、簡潔に言った。 動揺している陶子には、まきだ、と濁って聞こえた。
「牧、さん?」
「牧田。 田んぼの田がついてる」
「ああ……」
「で、君は?」
 陶子はためらった。 だが、相手の名前を訊いておいて、自分は言わないというわけにはいかない。 仕方なく、小声で教えた。
「藤沢です」
「藤沢さん」
 なんとなく嬉しそうに、牧田青年は繰り返した。
 その間に、陶子はできるだけ急いで首からマフラーを取り去った。 とたんに冷たい空気が胸元に忍び込んできた。
「これ、お返しします。 ありがとう」
「よく似合うのに」
 牧田は、芯から残念そうに言った。


 不審感を通り越して、陶子は笑い出しそうになった。 もしかすると、子供扱いされているのだろうか。 彼は、途方にくれた迷子に接するように、彼女の面倒を見ていた。
「私、もう帰らなきゃいけないから」
 話し方が、なんとなく言い訳じみた。 すると、牧田はめりはりの効いた大きめな眼をパチパチさせて、手を上げるとグリーンのタクシーを呼び止めた。
「バスは出たばっかりだ。 駅までタクシーで行こう」
「ちょっと待って」
「僕も帰るんだから。 ついでだ」
「ちょっと……」
 またも陶子はやすやすと押し切られ、運転手が開いた後部ドアから、奥に詰め込まれた。


 まったく、何でこうなるんだろう。
 走ってもいないのに、息が切れた。
 狭い車内で膝を揃えなおし、陶子はできるだけそっけない表情をして、背中をまっすぐに伸ばした。
「あそこの料理さ、ちょっと辛くない?」
 牧田がくったくなく話しかけてきた。
「別に」
 冷たく聞こえればいいがと願いながら、陶子は短く答えた。 そうしながら、父と食事しているところを見ていたんだな、と思った。
 それで少し嬉しかったのは、内緒だ。


 駅前で車が停まると、すぐ陶子は財布を出そうとしたが、ポケットから札を抜き出した牧田に先を越された。
「釣りはいいです」
「どうもー」
 愛想よく振り返った運転手は丸顔で、帽子の下からごま塩の髪がはみ出していた。


 降りてから、陶子は改めて牧田に五百円硬貨を差し出した。
「割り勘で」
 牧田は素直に受け取った。 やっとこっちの言い分が通った、と陶子が満足した瞬間、また肩にふわりとウールの布地が乗った。
「じゃ、マフラー代として貰っとくね」


 えっ?
 唖然としている陶子に、牧田は軽く手を上げて言い残した。
「また逢えるといいね、藤沢さん」
 そのまま、彼はスッと駅の構内に姿を消した。








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