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表紙

透明な絵 ≪8≫
 しゃくにさわって、思わず陶子は尖った声になった。
「ねえ」
「うん?」
「私の誕生日、覚えてる?」


 気のせいか、わずかに間があいた。
 それから、父の目じりに放射状の皺が寄り、唇がほころんだ。
「もちろんだよ。 祝福してあげなくて、すまなかったね。 毎年思い出してはいたんだが、連絡を取る勇気がなくて」
 それから、不意に手を出して、陶子がまだ握っていた赤いバラの花びらに触れた。
「でも、一緒に祝ってくれる相手がいるようだね。 こんな素敵な花を、誕生日にも贈ってくれるんだろう?
 いいね。 赤いバラは大好きだよ、僕も」


 そのときまで、陶子は花を持っていることさえ忘れていた。
 慌てて、振り落とすように膝へ置くと、自分でもしつっこいと思いながら、再び尋ねた。
「そんなこといいの。 それより、言って。 私が何月何日に生まれたか」
 陶子は必死だった。 もしも本当に父が忘れてしまっていたら、自分の存在価値が半分になってしまうような恐れを感じた。


 小さく咳払いした後、父は言った。
「だから覚えてるよ。 八月七日だろう?」


 あやうくしびれかけた心臓に、温かい血流がどっと戻ってきた。
 よかった……!
 涙ぐみそうになったのを隠すために、陶子はことさら硬い声になった。
「そうよ。 暑い盛り」
「ペルーも北の地方はけっこう暑いよ。 こっちと季節が反対だから、今は暑くなりかけの頃だ」
 南半球の国。 地球の裏側にある、父の農場。
 まだ現実とは思えなかった。 いびつな夢の中にいるような気分だった。
「晩飯一緒に食わないか? いつ墓参りできるか、予定立てたいし」
 父の穏やかな声が、遠ざかって聞こえる。 朝、突然かかってきた電話から、どれだけ自分が消耗したか、陶子はようやく悟った。
 疲れた〜。
 ほぼ初対面といっていい中年の父に、どっと寄りかかりたくなった。


 頷いて立ち上がったとき、ロビーの端にある広い曲がり階段から、あの青年が降りてくるのが見えた。
 軽々とした、飛ぶような足運びだった。 ラフな格好で、気取ってもいないのに、彼はどこかエレガントな雰囲気をただよわせていた。








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