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表紙

透明な絵 ≪7≫
 陶子がすぐ前まで近付いて初めて、相手はソファーから立ち上がった。 なめらかで若々しい動きだった。
「来てくれたんだね。 ありがとう」


 電話と同じ、穏やかで優しい声だった。
 だが、直接耳にしたとたんに、陶子の興奮は冷めた。
 なぜかわからない。 かすかにおもねるような調子が、気に障ったのかもしれなかった。
 頭の一部が冷静になって、陶子は落ち着いた口調で話し出すことができた。
「死んだと聞かされていたわ。 母から」
「でも、失踪届は出さなかったんだね」
 陶子は、柔らかな表情をしている相手を、挑むように見た。
「調べたの?」
「そりゃあ気になったよ。 死んだことになっていれば入国できない」
 それはそうだ。
 右隣の、やや近いソファーに、身なりのいい老人が腰を降ろした。 陶子は声を落として尋ねた。
「あなたが父だという証拠を見せて」
 予期していたらしく、相手はすぐコートの前を開き、ベルトにつけたポーチからパスポートを出して、広げて見せた。


 発行日時は、半年ほど前だった。
「以前の十年有効のやつはもう期限切れだったんで、新しく発行してもらった」
「ねえ、どこにいたの?」
 パスポートの小さな字を読もうとして、陶子は顔を斜めにした。 すると、父はすっとページを畳み、ポシェットに突っ込んでしまった。
「無くすと困るからね」
 陶子はムッとして、目を怒らせた。
「十五年よ。 その間どこに?」
「ペルーだ」
 父は、肩をすくめるジェスチャーをした。 いかにも外国で身についた仕草だった。
「マラニョン川の近くで、農園をしているんだ」
 改めて、陶子は父の顔を観察した。 戸外に長くいる人の特徴で、肌がかさかさと黒ずんでいる。 額の上部が他より白いことに、陶子は気がついた。 たぶん帽子の陰になって、日焼けしなかったのだろう。
「雇われて?」
 父は首を振った。
「いや、自分の土地だ」
 その口調は、明らかに誇らしげだった。


 彼が胸を張ると、陶子はどんよりと気が重くなった。 妻と娘を放り出して、父、つまり藤沢悠輔は南米へ行き、新しい暮らしを築いたのだ。
 何の連絡もせず、養育費もよこさず、娘の誕生日さえ完全に無視して。








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