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表紙

透明な絵 ≪6≫
 バスは、かっちりと直方体に刈り込まれた植え込みを左側にして、大通りへ出た。
 青年は明るい表情で、ジーンズの脇ポケットに取り付けた大きなナスカンを引き出し、ジャラジャラとつながった鍵を確かめた。
「一、二、三……六、七と。 全部あるな」
 そして、見るともなく目をやっていた陶子に鍵束を振ってみせた。
「どんどん増えてくる。 不思議だ」
 陶子の場合は、バッグの中にあるベルトに取り付けていた。 用心はしているが、バッグを引ったくられたら大変だ。
「そうね、鍵は失くすと……」
 うっかり答えてしまって、陶子はあわてて途中で口をつぐんだ。 隣りの青年には、初対面の警戒心を自然にほぐす、少年っぽい人なつっこさがあった。
 彼は、小首をかしげて続きをうながした。
「失くすと?」
「……大変だから」
「そうだよね」
 あまりにも当たり前な答えに、青年は顔一杯の笑いを浮かべた。 茶化すようでいて、くっきりした目が細くなると優しさがただよった。
 そのとき、バスが大きくカーブを切った。 もうホテルの駐車場に着いたのだ。
 あっという間だった。


 前後してバスから降りた後、陶子はまた青年と並んで入口まで歩いた。
 ガラスのエントランスの前で、陶子は足が止まった。 まだ心の準備ができていない。 父といったって、七歳までの思い出しかないのだ。 別れてからの歳月は、その二倍以上だった。
 陶子の気が進まないのを、青年は見てとったらしい。 肩にかついだバッグに手を入れ、手品のように赤いバラを一本取り出した。
「嫌な仕事? はい、元気の出るおまじない」
 ショルダーバッグのベルトを掴んだ陶子の指にスッと花を差し込んで、青年はさっさと中へ入っていった。


 陶子は、手の中のバラを見つめた。
 初めは、あいた口がふさがらない感じだったが、次第に胸が温かくなってきた。
 風変わりだし、どこの誰かもわからないけど、彼は励ましてくれたのだ。 背中をそっと押されたような気がして、陶子は肩の力を抜き、できるだけ普段通りの足取りで、ホテルの中に踏み込んだ。


 Tホテルのロビーは、淡いグリーンを基調とした落ち着いた雰囲気だった。
 先に行った青年のほうをちらりと見ると、彼はもう受付に着いて、長身を屈めるようにして何か話していた。
 陶子は、ブルーのジャケットの裾を伸ばし、自分でも明らかにわかる強ばった表情で、広いフロアを右から見ていった。
 奥の壁際に並んだオリーブグリーンのソファーから、男が立ち上がった。
 円柱の横に立ち止まったまま、陶子はその相手に目を凝らした。
 中年だ。 ふさふさした髪、細めの顎。 スーツ姿ではなく、紺色のポロシャツの上にベージュの防寒コートを無造作にまとっていた。


 男の口が、ゆっくりと微笑んだ。 右手が上がって、陶子に挨拶を送った。
 まっすぐ彼を見据えたまま、陶子はテーブルの周囲に置かれた椅子を回って近付いていった。


 ほんの十メートルほどが、果てしない道のりに感じられた。








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