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表紙

手を伸ばせば  その298



 屋敷内でもっとも大きく、一年に数回しか使われない大舞踏室は、八日という期間と多数の人の手により、望みうる最高に近い華やかさに生まれ変わっていた。
 細かいひだを取ったクリーム色のサテンが上壁を隙間なく覆い、優雅なドレープを描いて垂れ下がっている。 その下には、波打つように活けられた薔薇、薔薇、薔薇の海。 爽やかな香りが部屋を埋め、訪れた招待客の目を奪うあでやかさだった。


 正面の大扉が厳かに開かれ、白地に銀糸の精巧な縫い取りを入れたドレス姿のジリアンが、銀ねずみ色の三つ揃いで決めたパーシーと手を取り合って登場した。
 たちまち会場に盛大な拍手が湧き上がった。 花嫁も花婿も付き合いが広いため、あちこちから歓声や応援が飛び、一時は祭りのような賑やかさになった。
 周囲に押し出されるようにして、二人は部屋の真中に進んだ。 すぐにオーケストラが華やかな曲を奏で始めた。
 さすがのジリアンも緊張して、足が震えた。 すると、パーシーが彼女の手を取って唇に当て、低く囁いた。
「これが最後の母親孝行だ。 終わったらできるだけ早くアボッツ村へ帰ろう。 君があんなに行きたがっていた二人の故郷へ戻って、そうだな、裸で泳ぐか」
 いかにもパーシーらしい最後の言葉に、ジリアンは思わず笑顔になった。 すかさずパーシーは小柄な妻を抱えあげるようにして、見事なターンでダンスを始めた。


 少し踊ったところで、ヘレンとクレンショー、ハーバートとマデレーンが加わり、続いて客たちも次々とダンスフロアに出て、大きな踊りの輪ができた。
 この催しに招かれるのは、夏のロンドン社交界のもっとも名誉なことだったので、客たちは装いを凝らし、思い切り着飾って来ていた。 だから壁に飾られた薔薇同様、フロアにも色とりどりのスカートの花が開いて、小間使いたちが通りすがりに思わず足を止めて見とれるほど華やかな光景だった。


 やがて、踊りつかれた姉妹は部屋の端に退き、夫たちが持ってきてくれた飲み物に口をつけながら、雑談を始めた。
 そこへ続々とお祝いの挨拶に女性客たちが訪れ、人だかりができた。 すかさず、奥で大量の名流夫人をさばいていた母のジュリアがやってきて、なめらかに挨拶で交通整理したが、それでもなかなか追い払えないほど客は多かった。
 人ごみ嫌いなマデレーンは、さっさと逃げて、ハーバートと共にベランダへ出てしまった。 気候がいいので、他にも何組かのカップルが庭園に出ていた。
 パーシーは主役だから逃げ出すわけにはいかず、彼としては最大の忍耐で、詰め掛ける客たちへにこやかに会釈を続けた。
 彼が一人ずつに小声で何か言っているので、感心に挨拶しているのかと思ったジリアンは、体を寄せて聞き取ろうとした。
 すると、豪華なエメラルドのネックレスとブレスレットで飾り立てたグレイヒル伯爵夫人と令嬢のアメリアに頭を下げながら、パーシーは二人に聞こえない程度に声を落として、こう呟いていた。
「おばちゃん15人目にガキ8人目」
 ジリアンはとっさに扇で顔を隠し、思い切り吹き出したのを咳に見せかけて、うまくごまかした。


 九時からは、贅〔ぜい〕を尽くした晩餐会が開催された。 どんなに気難しい社交界のすれっからしでも文句のつけようがないほどの料理で、感激した海軍大臣が、シェフのユーグ・メルモランをわざわざ呼び出して誉めちぎった。
 食事の後は、またダンスが再開された。 後半は義務ではないので、パーシーとジリアン夫妻は一曲踊っただけで、前半のマデレーン達をまねてベランダへ去った。
 ちょっとした劇場ぐらいの広さがある舞踏室なのに、これだけ客が集まると人いきれがした。 外の夜気は新鮮で、二人は大きく息を吸い、それから肩を抱き合ってのんびりとさまよった。
「ダンス靴を念入りに選んでおいてよかったわ。 こんなに動いた後でも全然足が痛くならないの」
「君はお義母さんの勝利のシンボルで、トロフィーみたいなもんだからな。 疲れただろう? あのベンチに座ろう」
「そうね、そうするわ」
 パーシーはどっしりした砂岩のベンチにジリアンを座らせ、自分も隣に腰をおろすと、長い脚を伸ばした。
「想像以上の騒ぎだったな」
「ほんと。 今日の午後に学校友達のサラがやっと間に合って駆けつけてくれたのに、まだほとんど話もできないの」
「今夜泊まっていくんだろう? 明日はきっとゆっくり話せるさ」
「そうね。 明日になれば」
 そこでジリアンは、小さく欠伸した。



 それから数分後、デナム公爵ジェイコブがシェリーのグラスを持ってベランダを通りかかった。
 そして、ベンチで寄り添う二人の姿を目にして、足を止めた。
 ジリアンは、ぐっすり眠っていた。 パーシーは彼女の体にしっかり腕を回し、抱きしめて頭の上に顔を載せている。 よく見ると、彼のほうも安らかな眠りに落ちていた。
 ジェイコブの口元に、微笑が浮かんだ。  二人を起こさないように、道順を変えて横のドアから入ろうとして、彼はもう一度振り返った。
 ベンチに座って眠る若い夫妻は、まるで一つの影のように溶け合って見えた。








《完》
(エピローグに続く)












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