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手を伸ばせば  その296



 太陽が地平線上の雲に吸い込まれていく頃には、ジリアンはドレスの整理と細かい部分の補整にすっかり疲れて、ひっそり家の裏手に逃げ出した。
 マデレーンとヘレンは、ジリアンのドレスを堪能した後、二階の談話室に移動し、お互いの子供たちを交えて育児話に熱中していた。
 パーシーはフランシスと共に、サヴィルローの高級紳士服店に出向いて、式の礼服を受け取りに行っていた。 といっても、二人のことだからそれだけでは済まないにちがいない。 友達を集めて、前にできなかった『独身最後の会』を開き、したたかに酔っ払って帰ってくるだろう。 馬の事故を起こさないように祈るばかりだ。
 ジリアンは、いそいそとお気に入りの場所に行ったが、客の目を気にしてか、ハンモックは外されていた。 ジリアンはがっかりして、紅蔦のからんだベンチにしぶしぶ腰を下ろした。
 辺りは美しい夏の夕暮れだった。 花壇の薔薇の香りを載せた柔らかな風が、頬を撫でて吹き過ぎる。 藍色に変わりかけた平和な空を、三羽の鳥が楽しげに追いつ追われつしながら飛んでいった。 ここがロンドンという世界有数の都会にあるとは、とても思えない。 のどかな静けさの中で、久しぶりの孤独を楽しんでいたジリアンは、間もなく夢の世界に誘いこまれていった。


 ふと意識が戻ったのは、夫とは違う匂いを感じたからだった。 いかにも男性的な、懐かしい匂い…… 懐かしい?
 自分で自分に驚いて、ジリアンは急いで瞼を引き上げた。
 すると、横に男性が座っているのがわかった。
 寝込んでいたのは三十分にも満たなかっただろう。 だが空の色はすっかり濃くなり、木々の影は暗さを増して、輪郭が徐々に見分けにくくなってきていた。
 ジリアンは、夢からはっきり覚めないまま、隣の青年の手を探って、堅く握った。
「マーク……?」
「ジリアン」
 マークは深みのある声で答え、優しく手を握り返した。
「新婚の花嫁さんが、なぜ一人でこんなところに?」
 ジリアンは空いた手で目をこすり、ぼうっとした口調で答えた。
「疲れちゃったの。 準備や、お客様の出迎えに」
「幸せ疲れだ」
「ええ、まあ、そうね」
 マークはうつむき、手のひらに載せたジリアンの指を軽く叩いた。
「僕も疲れた。 すべてが片付いて、嬉しくてたまらないんだが、肩の荷が下りたとたん、がっくりした気分になった」
「怪我はどう?」
「そちらはもうすっかり良くなった。 心配ない」
「一番頑張ったのは、まちがいなく貴方だわ」
 ジリアンは心を込めて彼に話しかけた。
「貴方のおかげでパーシーは本当の生まれを知ったし、ご両親の死の真相もわかった。 デントン・ブレア一族の闇は一掃されたわけだし」
 マークは長い睫毛の下からジリアンを鋭く見やった。
「それで?」
 ジリアンは少しためらった。
「それで、貴方の努力は報われたと言えるかしら。 命までおびやかされたのに、貴方の功績は表には出ない」
「僕等の仕事では、当たり前のことだよ」
 マークは静かに遮った。
「報酬は、ちゃんとある。 ナサニエル叔父さんは、妹の結婚にあたって婚資金を肩代わりしてくれて、あの子は肩身の狭い思いをせずに貴族夫人になれた。 ベスが、あなたたちはベッツィと呼んでいるらしいが、あんなお嬢様学校に入れたのも、叔父の援助だ。
 それに、僕が軍隊に入るときにも世話になった。 ずっと変わらず応援してくれている」
「これからは一族を挙げて、貴方を応援するわ」
 ジリアンは両手でマークの手を包んだ。
「パーシーと私だけじゃなく、実家の家族も、たぶんラムズデイルの人たちも。 みんな貴方の味方よ」
「凄いね」
 マークは淡く微笑した。 当惑している様子だが、喜んでもいた。
「大変な後ろ盾だ。 安易に頼る気はないが」
「そういう人だから、味方になり甲斐があるのよ。 貴方は真の意味で頼もしい人だわ」
「ありがとう」
 だいぶ元気が回復した様子で、マークはしっかりと答えた。











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