表紙目次文頭前頁次頁
表紙

手を伸ばせば その289



 ジュリアは椅子の上で背をピンと伸ばした。 目が怒りで氷のようにきらめいた。
「貴方はマデレーンの出生を疑うの? 許しませんよ! ジェイコブだってそんな話は笑い飛ばすわ。 あの子はジェイコブの叔母さまのフィリスにそっくりだもの。 たしかフィリス叔母さまの肖像画はアボッツ村の屋敷にしまってあるはずだから、今度出して見せてあげるわよ」


 フランシスの呼吸が、少し楽になった。 ジュリアは唇をわずかに尖らせ、傷ついた太い声になった。
「あの年、ジェイコブと私は大喧嘩したのよ。 フランスとスイスへ旅行する約束をしていたのに、寸前になって世界情勢がどうとか言って、急に止めると彼が言い出したから。
 私はヨーロッパへ行きたかった。 二人も子供を産んで、跡継ぎもできて、妻の義務を果たしたんだから、楽しみたかったの。
 メルヴィンは……それが彼の名前なんだけど、貿易の仕事をしていて、フランスの港で船を封鎖されててね、だから交渉して品物をイギリスへ運ぶ許可を取ろうとしてたのよ。 だから、ついでに私を連れていってくれるって」
「お母様!」
 フランシスは再びカッとなった。
「何と軽薄な! 結婚してるのに、他の男性と旅に出ようとしたんですか!」
「メルなら何の危険もないもの。 彼が好きなのは男の人だけだった。 社交界では公然の秘密だったのよ」
 話が予想とまったく違った方向に行くので、フランシスは混乱してきた。
「つまり、その男性は……」
「テノール歌手の恋人がいたわ。 私たち三人でこっそり出かけて、パリの歓楽街の夜を思い切り楽しもうと約束したのよ」
 三人でだと? 母の奔放さに、フランシスは言葉もなかった。
「お母様……」
「よその奥様方はうまくやって遊び回ってるのに、私は田舎で子育てばかり。 それがどんなに退屈でつまらないものか、男のあなたにわかる?」
「ジリーの話では、革命のせいでパリはごちゃごちゃした汚い裏町だらけで、美しくも楽しくもないということですよ。 それに中世なみに不潔だったとか」
「じゃ、イタリアに向かったわ、きっと。 この前の旅は本当に楽しかったから」
「まさかあの時も、お母様はマデレーンの縁談にかこつけて、自分が観光旅行したかったんですか?」
「いいじゃないの。 旅が大好きなのよ。 でも一人じゃ行かせてもらえない。 貴族の奥方なのに、何も自由にできない」
 なんて人だ。
 今さらながら、フランシスは母の強烈な利己主義を思い知らされた。 根本的に、自分さえよければ後はどうでもいいのだ。
「じゃ、メルヴィン氏はどうして自殺したんです?」
「取り戻そうとしていた貨物船が、嵐で沈んだの。 財産を失ったら、歌手の恋人も離れていったわ。 だから絶望して」
「お母様には関係なかったんですか」
「もちろんよ」
「その割には、必死でこの手紙を取り返そうとしましたね?」
「スキャンダルが怖かったのよ」
 ジュリアはしぶしぶ認めた。
「メルが死んでから、もう二十年経つわ。 あのときは事情を知っていた人も、今の社交界では少なくなった。 キャロラインは意地悪で作り話がうまいんですもの。 私を陥れるために、これを新聞社に渡すかもしれないじゃない」
「そう仄めかされたんですね?」
「はっきりとは言わなかったけど、まあそういうこと」
 確かに、社交界の女王として君臨するジュリアが何より恐れるのは、スキャンダルで人気を失うことだろう。 フランシスはだんだんうんざりしてきた。
「心が狭くて噂話ばかりしている社交界が、そんなに大事ですか?」
「だって権威の象徴でしょう? ここは大英帝国なのよ。 世界の中心よ。 その頂点にいるんだから」
「お母様は男に生まれていたら、ジェラルドと同じように首相の座を狙ったかもしれないですね」
 フランシスはそう呟き、手紙を畳みながら、どうしても冷たくなる声で言った。
「お父様は旅行が嫌いだ。 それは認めます。 でもそれ以外は、お母様の好きなようにさせてくれていますよね?」
「私は旅に行きたいの。 できたら世界一周したいぐらいだわ」
 ジュリアは頑固に言い張った。 フランシスは溜息をつき、妥協した。
「一ヶ月間。 そのぐらいなら、父上を説得できます」
 とたんにジュリアの眼が大きく見開かれた。
「え? 行けるの?」
 フランシスは用心深く答えた。
「たぶん。 ジリーの披露宴が済んだら、僕が夏休みに連れていってあげますから」










表紙 目次前頁次頁
背景:kigen
Copyright © jiris.All Rights Reserved
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送