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手を伸ばせば その288



「お母様、今お帰りですか」
 フランシスは静かに言った。 それは問いではなく、これまでジュリアが息子の口から聞いたことのない、他人行儀な冷ややかさの潜んだ確認の言葉だった。
「ええ、すごい夕立だったわ」
 自然とジュリアはひるんだ答え方になり、そんな自分に腹が立った。 長男とはいえ、相手はまだ学生の若造なのに、なぜ非難されたような気持ちになるのだろう。
 フランシスは道を譲ろうとはせず、逆に母親の肘に軽く手をかけて、押し強く言った。
「話があります。 ここでは何ですから、喫茶室へ行きましょう」
「私は疲れてるの」
 ジュリアは息子の手を振り払おうとしたが、できなかった。 フランシスの目に、暗い炎に似たものが走った。
「行ったのが画廊だけではないからでしょう?」
 ジュリアはしびれたようになった。
 彼女もフランシスやジリアンの母だから、愚かではなかった。 息子の仄めかしが何を指すか、瞬間的に悟った。
 ジュリアはうつむいて、くしゃくしゃになった紙の玉をレティキュールから出し、フランシスに向かって突き出した。
「これを読んだのね」
 フランシスはゴミのようになった手紙を受け取ると、皺を伸ばして確認し、懐から一枚の紙を取り出して重ねた。
「ええ。 昨日マックスと一緒にデントン・ブレア邸に行って、隠し戸棚で見つけました」
「なぜわかったの!」
「ここでは話せません」
 逆上しかけている母を抱くようにして、フランシスは手近な空き部屋に入ってから、扉を閉めて寄りかかった。 額に前髪が垂れかかり、表情は暗かった。
「ここだって、立ち聞きしようと思えばできる。 頼むから大きな声を出さないでください。 忠実なマックスにさえ、隠し金庫のありかは教えてないんですから」
「あなたはどうして知ってるの?」
「お母様の動きで推理したんですよ」
 フランシスは目をしばたたいた。
「朝早くこっそり出かけたとき、後をついていったんです」
 ジュリアは椅子に崩れるように腰を落とすと、震える指を額につけた。
「お父様には……話したの?」
「話すわけないじゃありませんか!」
 思わず自分も声が大きくなって、フランシスはあわてて自重した。
「お母様は昔から社交界の花形だった。 でも僕は、一度も疑ったことはなかった。 毎日夜明けまで遊び歩いていても、最後の一線は越えないだろうと……」
「やめて!」
「Mとは誰ですか!」
 さっとジュリアは顔をそむけた。 唇が大きく震えている。 容赦なく、フランシスは畳みかけた。
「貴方はそのMと駆け落ちまでしようとした。 でも寸前で気が変わって、行かなかった。 相手はショックでピストル自殺をしてしまい……」
「やめてったら!」
「じゃ、調べましょう。 二十年前に頭を撃ち抜いた紳士は、そんなに多くはないはずだ。 すぐ見つかるでしょう」
「私は行かなかった。 妻の義務を守ったのよ! それとも、駆け落ちすればよかったというの?」
「妻の義務というなら、初めから付き合わなければいいじゃないですか!」
 フランシスも我慢の限界に達した。
「夫と愛人の両方にいい顔をしておいて、結局はどっちも裏切った!
 教えてください。 マデレーンは彼に似てるんですか、それとも似てないんですか!」










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