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手を伸ばせば その286



 キャロラインが逮捕されてから、デナム家の雰囲気はすっかり明るくなった。
 二日後、もう屋敷に戻ってもいいと医師からお許しの出たハーバートは、マデレーンと手を取り合って、いそいそと馬車に乗り込んだ。
 その一日前に、息子たちの回復を見届けて安心したジェームズ・ラムズデイル氏も、アボッツ・アポン・ロックの自宅へ帰っていった。 会社よりも、下の子供たち二人の顔を見たくなったのだ。


 三人がいなくなると、デナム邸宅は以前の眠るような静けさを取り戻した。 母のジュリアは風邪ぎみだとかで、食事を上の階まで運ばせている。 そのくせ、知り合いの画家フォード・マドックス・ブラウンの絵画展には、厚着をして出かけていった。
 母とほとんど顔を合わせなくても、ジリアンの幸福感に翳〔かげ〕りはなかった。 パーシーは、決闘に続く毒殺未遂騒ぎで、すっかり気持ちが吹っ切れ、ジリアンがまだスタイルのいいうちに披露宴を挙げて、堂々と社交界に存在を認めさせようと張り切り出した。
「キャロライン夫人の逮捕は、大きく報道されてる。 一ヶ月後の裁判は、もっとスキャンダラスに騒がれるだろう。
 だからその前に有力者たちを軒並み招待して、僕らの姿を見せよう。 ヨーロッパの社交界で凄い人気だった君のことだ。 あっという間に、ロンドンも征服してしまうさ」
 木陰に吊り下げた二人用のハンモック・チェアーの上で、妻を抱きしめながら、パーシーは耳元で囁いた。
 ジリアンは半分目を閉じて、うっとりとパーシーに寄りかかっていた。
「ローマやパリでは、公爵の娘という肩書きでちやほやされたのよ」
 パーシーの腕に力が入った。
「それだけじゃない。 絶対にそれだけじゃない!」
「いいの、あなたにさえ魅力的だと思ってもらえれば」
 二人は軽く唇を合わせ、また抱き合った。
「準備は、仕切り屋のお母様にやってもらうつもりだったんだけど、元気がないのよね。 小間使いのベックがこぼしてたわ。 お気に入りの彼女まで遠ざけて、寝室に鍵かけてごそごそやってるんですって」
「お義母さんもそろそろ年なのかな。 物忘れがひどくて、大切なものが見つからないんだろう」
 パーシーの口は、相変わらず悪い。 ジリアンは笑いをこらえて、彼の手を軽く叩いた。
「本人の前でそんなこと言わないでね。 気位が高いんだから」
「言わないよ。 これでも海軍で、ずいぶん丸くなったんだから」
 パーシーはジリアンの頭に頬を載せて、もごもごと答えた。




 ジュリアが絵画展の会場を出たのは、午後の四時過ぎだった。
 気まぐれなロンドンの天気は、中へ入ったときの快晴とは打ってかわって、黒雲が空を覆い、大きな雨粒が街路の敷石に染みを作りはじめていた。
 二頭引きの馬車に乗り込む前に、ジュリアは御者に、ある通りの名を告げた。 それは、デントン・ブレア邸宅のある場所だった。


 走っている間も空は暗さを増し、雨はどんどん強くなった。 雷が空を切り裂く中、ジュリアは敢然と馬車を降り、御者の渡した傘で顔を隠すようにしながら、屋敷の庭に走り込んだ。
 裏の戸口をノックしても、返事はなかった。 忠実に見えた家政婦だが、既に逃げ出してしまったのかもしれない。 篠つく雨の中、ジュリアは屋敷の側面をずっとたどっていって、裏手にある使用人の通用口まで来た。
 ここの備えは適当だった。 木の横棒を金具に通して止めてあるだけだ。 ジュリアはそっと棒をずらし、狭い戸を開けて廊下にすべりこんだ。
 使用人の区域は窓が少なく、中は薄暗かった。 ジュリアは延々と廊下を歩き、ようやく見知った階段にたどり着いて、濡れたスカートをたくしあげながら急いで上った。
 目当ての寝室に近づいたとき、思いがけないことが起こった。 いきなり横の部屋のドアが開いて、男が姿を現わしたのだ。
 彼と顔を付き合わせたとたん、ジュリアは真っ青になって、口に手を当てた。 相手も当然驚いて、ジュリアを穴が開くほど見つめた。
 その男とは、デナム公爵の腹心の秘書、マックス・レイクだった。










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