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手を伸ばせば その284



 ジュリアの思わぬ申し出に、再びマレー夫人の眼の縁に涙が盛り上がってきた。
「ありがとうございます…… 私も何か奥様の役に立つことをしなければと思っておりましたが、なにぶんにも初めてのことで、どうしたらよいか見当もつきませんで」
「他の使用人は?」
 屋敷も庭も静まりかえっていた。 いくら早朝とはいえ、下働きは暗いうちから働くものだ。
 マレー夫人は、手にした地味なハンカチを見つめながら、怒りをこめて呟いた。
「ほとんどが、昨夜のうちに辞めてしまいました。 未払いの給料の代わりだと言って、ジェラルド様のシャツや奥様のハンカチなど、奪い合うようにして持っていきました。 絵や宝石に手を出すと、窃盗罪でニューゲイトに放り込まれます。 でもハンカチや下着ぐらいなら、出どころはわかりませんから」
「あなたも今のうちに貰っておいたほうがいいわよ」
 ジュリアはあっけらかんと忠告した。
「この屋敷は、間もなく正統な跡継ぎに返されるの。 新しい家主は前の住人が使った物なんか全部捨てるでしょうね。 だからあなた達がここを空っぽにしても怒らないわ。 片付ける手間がはぶけたと思うでしょう」
 このドライな感想に、マレー夫人の口がぽっかり開いた。 急いでいるジュリアは、愛想のいい笑顔を家政婦に向けて、押しのけているのを気づかれないようにつくろいつつ、ドアの中にじりじりと入りこんでいった。
「ほら、あの絹のカーテン。 ドレスやスカーフが山ほど作れるわよ。 それにあの飾りテーブルのクロスも。 さあ遠慮しないで。 あなたはそれだけ貰えるほど働いたんだから。
 いいこと? 残りの使用人が少なければ、あなたの取り分は多いのよ。 部屋を回って調べていらっしゃい。 退職金代わりに、賢く立ち回らなくちゃ」
 これまで真面目一方に勤めてきたマレー夫人だが、そそのかされて新しい可能性に目覚めた。
「ええ……ええ、そうでございますね。 どうせ処分される物なら」
「その通り。 下が終わったら、リネン室にも行ってみて。 名前や紋章の縫い取りを切ってしまえば、何ポンドもする高級な麻がただで手に入るわ」
「はい!」
 浮き足立ったマレー夫人は、もの欲しげに広間を見回し始めた。
 これで小うるさい監視を逃れることができる。 ジュリアは狐のような軽い足取りで、透かし彫りの手すりがついた優美な階段を、一人で上っていった。


 何度も訪れている屋敷なので、キャロラインの部屋には目をつぶっていても行けた。
 銀色のノブを回して、南欧風に明るく仕上げた続き部屋に入ると、ジュリアは注意深くドアを閉じ、用心のため内鍵をかけた。 そして、薔薇の続き模様に彩られた壁紙にぐるりと触れ、手の届く範囲をすべて確かめた。
 壁紙に切れ目はなく、隠し戸があるとは思えなかった。 ジュリアは小さく舌打ちすると、次は椅子やソファーの下を探って、異質な感触がないか確認し始めた。
 部屋の中は散らかっていた。 デスクの引出しは二つとも床に投げ出されて、中身が床に散乱しているし、洋服箪笥も大きく開いたままで、外套やマントがはみ出ていた。
「あんな所に入れるほど、キャロはバカじゃないわ」
 ジュリアは警察の頭の悪さを嘲り、隣の寝室に入った。 ここは親友といえども、一度しか来たことのない場所だ。 キャロラインが三番目の子を死産したとき、お見舞いに来たのだが、たしかあの子は男の子だった。
 エリックと名づけられるはずだった子供が生きていたら、キャロラインの人生も変わっていただろうか。 いや、やはりジェラルドを貴族にするため、どんな手段でも使っていただろう。 人の性質はそう変わらないものだ。
 頭の隅で過去を振り返りながらも、ジュリアの手は忙しく動いた。
 間もなく、ジュリアの視線が一点に吸い付いた。 暖炉のマントルピースに、左右一対の天使のレリーフがある。 その浮き彫りの片方が、どこかもう一方と異なって見えた。











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