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手を伸ばせば その263


 その後、ジリアンはうつらうつらと浅い眠りに落ちた。
 目が覚めたのは、四時過ぎだった。 辺りはまだ薄暗いが、パーシーはもう起き出す準備を始め、上掛けをそろそろと脚から剥がしていた。
 ジリアンが頭をもたげると、パーシーは気配で振り返って、淡い微笑を浮かべた。
「もう支度しないとな。 僕が帰ってくるまで、家を出ないでくれよ」
 ジリアンは一瞬唇を噛んだ。
「じっとしていられないわ。 馬に乗って、思い切り飛ばしたい」
「だめだ。 戻ってきたとたんに、君が首を折ったなんて聞かされたくない」
 たまらなくなって、ジリアンはパーシーの顔を両手で挟み、引き寄せた。
「あなたが好き。 誰より大切に思ってるの。 だからどうぞ気をつけてね。 ジェラルドの悪だくみなんかに負けないで」
 パーシーは数度うなずき、強いキスを残してから、さっとベッドを降りた。




 その後、着替えはしたものの、ジリアンは階下に降りていけなかった。
 小間使いが片付けをしている傍で、窓際のベンチに座り、全身を耳にしながら目を閉じていると、やがて外がざわめいて、紳士たちが玄関から出てきたのがわかった。
 いよいよ決闘場所のプリムローズ・ヒルへ行くのだ。 馬の低いいななきと、蹄の音が聞こえる。 ジリアンはぎこちなく立ち上がって、窓ガラスに顔を押しつけた。
 父のデナム公と、昨夜から泊りがけのハーバートは、すでに馬上の人になっていた。
 パーシーは手に乗馬鞭を下げて、玄関のほうを見ている。 妻が送りに出てくるのを待っているようだった。
 ジリアンは、急いで窓の閂を外し、外側に開け放った。 パーシーが勢いよく見上げた。
 窓枠から身を乗り出して、ジリアンはパーシーを見つめた。 心の張りが戻ってきたのか、自然に微笑みが浮かんだ。
「雨が止んだわね!」
「ああ。 ぬかるんでもいないし」
 パーシーが明るく下から叫び返した。
「まっすぐ帰ってきてね。 祝杯はここで一緒に」
「わかった!」
 パーシーは手を振り、介添え人たちは帽子に手をかけたり頷いてみせたりして、挨拶した。
 それから三人は一かたまりになって、さっそうと馬を走らせていった。 彼らの後姿が消えるまで、ジリアンはじっと目で追い続けていた。




 永遠のような三時間が過ぎた。
 その間、母のジュリアは起きてもこなかった。 それをいいことに、ジリアンは、夫のハーバートと共に泊まっているマデレーンと二人で、庭園の外れにある東屋〔あずまや〕に行き、紅茶とサンドイッチの朝食を運んでもらった。
 軽食でも、なかなか喉を通らなかった。 マデレーンは懸命に慰めようとしたが、ジリアンは遮って、こう言った。
「マディの話したいことを話して。 お姉様の声が聞こえるだけで安心できるの」
 それではと、マデレーンは罪のない噂話や夫ハーバートの失敗談、子供たちのささやかな自慢などを語った。
 残念ながら、話の内容は、緊張の極にいるジリアンの耳にはあまり入らなかった。 だが、おっとりした姉の話しぶりは、心地よい音楽のようにジリアンの胸を癒してくれた。


 二人が東屋に陣取ったのは、母の干渉から逃れたいというのと、もう一つ、ここが玄関へ通じる道に最も近いという理由のためだった。
 七時過ぎになると、やや冷たい風が吹いてきた。 それでもショールをかけ直して身を寄せ合っていた努力は、やがて報われた。
 八時少し前になって、三頭の馬が並足で、大門から通じる道を上ってきたのだ。











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