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手を伸ばせば その231


 ジョックは懐から安物のフラスク(=酒の携帯容器)を取り出し、惜しそうにじっと眺めた後、ミリーに差し出した。
 ミリーは驚いて、相手を見上げた。
「やだ。 私はお酒なんて飲まないわよ」
「飲んでぐでんぐでんになったふりはできるか?」
 ミリーは目を丸くした。
「やったことはないけど、できると思う。 なんで?」
「教会に行くんだ。 牧師が出てくるまでドアを叩いてから、酔って行き倒れたふりをしろ」
 ようやく、ミリーの顔に理解の色が浮かんだ。
「そうすれば、一晩泊めてもらえるってわけね」
「ああ。 この寒空だ。 見捨てて凍え死にさせたら、牧師も寝覚めが悪いだろうからな」
 二人は目を見合わせ、にやっとして頷きあった。


 乳母の被り物を取って髪を振り乱し、顔や服に泥をなすりつけると、ミリーは哀れなあばずれに見えるようになった。
 そこで、ジョックが彼女の襟元や肩に酒をふりかけた。 嫌いなアルコールの匂いに、ミリーは顔をしかめ、赤ん坊はくしゃみした。
 ジョックは赤ん坊を抱き取って、上着の前にすっぽりと入れた。 赤ん坊はもう慣れていて、大人たちが歩き出して十歩も行かないうちに、すやすやと寝息を立て始めた。
「牧師館が見つかったら、いったん別れよう」
 早足で歩きながらジョックが言うと、とたんにミリーは心細げになった。
「私たちを置いていくの?」
「いや、あんただけだ。 赤ん坊は、世話できる人に預けてくる。 汽車がうまくいけば、明日の夕方には戻ってこれる。 だからそれまで、牧師んとこで何とか頑張れ」
 それから、ジョックは思いついて付け加えた。
「おっと、牧師には本当の名前を名乗るなよ」
 ミリーは口を尖らせた。
「当たり前でしょ。 私を誰だと思ってるのよ」
「じゃ、何て名前にする? こっちも覚えとかなきゃな」
「そうねえ……ナンにするわ。 ナン・マーティン」
「覚えやすくていい名前だが、いったいどこから出てきたんだ?」
「ナンは美人の従姉妹から、マーティンは私が生まれた日の聖人セント・マーティンから」
 その組み合わせなら、素性がわかることはないだろう。 ジョックはミリーの賢さに安心した。
「ナン・マーティンだな。 しっかり覚えとくよ」


 万一、翌日に戻ってこられなかったときのために、ジョックはミリーにシリング銀貨を渡した。
「もう一晩泊まることになったら、心を入れ替えたふりをしてこれを出して、酒代に隠していたけど寄付しますって言いな。 喜んで三日は泊めてくれるだろう」
「ありがとう。 でも、まだあなたが帰ってこれなかったら?」
「いや、必ず戻ってくる」
 ジョックはきっぱり言った。
「俺は腹の底から怒ってるんだ。 あんたや俺みたいな身分の者を虫ケラみたいに扱いやがって、こんな大それた罪の犯人に仕立てた奴は、絶対許せねえ。 そいつの鼻をあかしてやるんだ!」








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